■鉄製品
『魏志倭人伝』の記述
(1)「竹箭(ちくぜん)(竹の矢)には、あるいは鉄鏃(てつぞく)[鉄のやじり]、あるいは、骨鏃(を用いる)。」
(2)
「(魏の皇帝は、卑弥呼に、)五尺刀の刀二口を賜(たま)う。」
「五尺刀は長さ120センチほどの長い刀。銅の長い刀は折れやすいから「五尺刀は鉄の刀とみられる。」
(3)「兵(器)には、矛を用いる。」
兵器に用いるとすれば、祭祀用の幅の広い銅矛ではなく、鉄の矛とみられる。
このように、『魏志倭人伝』から、鉄の鏃・鉄の刀・鉄の矛を用いていたことが分かる。
また、『三国志』「韓伝」弁辰条に下記がある。
「国は鉄を出(いだ)し、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る。」
倭は鉄入手しているから、鉄の鏃、鉄の刀、鉄の矛をまとめてひとくくりにした方がよいのか?
これは調査項目の「独立性」の問題を考えるべきである。
鉄の鏃が出てくるところは、鉄の刀もでてくるのではないか。
一つにまとめるべきか、個別に扱うべきかについて、
ここでは、鉄の鏃でまとめて扱うことにする。
『魏志倭人伝』には、鉄器に関する記述に、つぎのようなものがある。
(1)「鉄の鏃」
(下図参照)
(下図はクリックすると大きくなります)
これを出土数の多い順に並べ替えると、下記となる。
(下図はクリックすると大きくなります) 
更に鉄器全体の出土数の一覧は下記となる。
(下図はクリックすると大きくなります)

これらを見ると、鏃であろうと、鉄器全体であろうと同じ傾向が見て取れる。そして、福岡県と岡山県と奈良県を着目すると、一番は福岡県で、5位は岡山県で、奈良県は28位や33位となる。グラフから、圧倒的に差があることが分かる。
更に、福岡県朝倉市、岡山県倉敷市、奈良県桜井市と比較すると奈良県桜井市は0例となる。
(2)「兵(器)には、矛を用いる」(兵器に用いるとすれば、祭祀用の幅の広い銅矛などではなく、鉄の矛とみられる。)
(3)「五尺刀二口をたまう」
(五尺刀は、長さ120センチほどの長い刀である。銅の長い刀は折れやすいから、五尺刀は、ほぼ鉄の刀とみられる。(下図参照)

(4)「刀をたまわった」(これも、鉄の刀か)
これらのうち、「鉄」素材のものと明記されているのは(1)だけである。
これらに関係した考古学的出土データとしては、下図のようなものがある。
(下図はクリックすると大きくなります)

(2)の「矛」をとりあげる。これは、「鉄の矛」と明記されているわけではない。
ただ、邪馬台国時代の矛が、「鉄の矛」であることについては、すでに何人かの研究者がのべている。
たとえば、考古学者、佐原真氏は、大阪文化財センターの考古学者、坪井清足(つぼいきょたり)氏などとの討論のなかでのべている。
「佐原-邪馬台国の時代には、矛はもう鉄矛ですね。
坪井-鉄になっていると思います。
佐原-鉄矛に違いないと思います。」(『邪馬台国が見える!』日本放送出版協会刊)
また、考古学者の、奥野正男氏ものべて
「弥生後期の実用の矛はすでに青銅製から鉄製に変わっており、このほか鉄剣・鉄戈なども用いられていた。
鉄矛の総出土数は(甕棺などから出土したものを含めて)十六本で、すべて九州北部から出ている。」(『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社刊)
広島大学の川越哲志の編集した『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)によるとき、福岡県と奈良県の、弥生時代の「鉄の矛」の出土状況は、下の表のようになっている。

中国文献や、考古学では、「矛(ほこ)」と「戈(か)」とは区別される(「コラム1」参照)。しかし、『古事記』『日本書紀』などをみると、「矛」と「戈」との区別が、必ずしも明確ではない。
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コラム1 「矛」と「戈」

「矛」は両刃(もろは)の剣型の穂に、長い柄をつけた武器。金属の穂の下部に、中空の袋部がついており、そこに柄の木をさしこむ。
「戈(か)」では、鳶口(とびくち)のように、穂と直角に近い形で柄をとりつける。「戈」では茎(なかご)を、柄の木にさしこんで装着する。
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伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が、天(あま)の浮橋(うきはし)に立ってさしおろした「アメノヌボコ」は、『古事記』では、「天沼矛」、『日本書紀』の本文では、「天瓊矛」と表記されているのに、『日本書紀』の第一の「一書(あるふみ)」では、「天瓊戈」と表記されている。
神話のなかに出てくる「ヤチホコの神」は、『古事記』では、「八千矛神」と表記されているのに、『日本書紀』では「八千戈神」と記されている。
『日本書紀』の編者は、中国の古典に通暁していたとみられるが、その『日本書紀』の編者が、「矛」と「戈」とを、明確には区別していない。古代人は、現代の考古学者のようには、「矛」と「戈」とを区別していなかった可能性が大きい(『季刊邪馬台国』36号所載、三上喜孝「『古事記』『日本書紀』の中の矛・剣・刀記事について」参照)。
かりに「戈」を「矛」の仲間にいれたとしても、以上のべた結論には、変わりがない。
「戈」は、上の表にみられるように、福岡県からは、十六本出土しており、奈良県からの出土は0(ゼロ)本である。
さらに『魏志倭人伝』にみえる矛を、かりに、鉄の矛ではなく、銅の矛や戈としても、結論に変わりがない。上の表にみられるように、そのころの銅矛、銅戈は、福岡県からは二百本以上出土しているのに、奈良県からの出土は、0(ゼロ)だからである。
(3)の「長い刀」をとりあげる。
(4)は、たんに「刀」とされているものである。
これを、「鉄の刀」とみたばあいは、どうなるか。
上の方の図(県別 弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈の数)をみれば、「鉄の鏃」データの分布と、ほとんど変わりがない。「鉄類データ」については、「鉄の鏃」データを用いれば、十分であることがうかがわれよう。
この図(県別 弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈の数)のデータを、上の方の図(弥生時代の鉄族の出土数)の鉄の鏃についてのデータとは独立のデータとして用いることも十分考えられる。
しかし、この図(県別 弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈の数)のデータを用いれば、「邪馬台国福岡県所在説」の確率がますます大きくなり、「邪馬台国奈良県所在説」の確率が、ますます小さくなるだけである。
寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年刊)の211ページで、広島大学の川越哲志(かわごえてつし)氏編の『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室(2000年刊)に示されたデータなどをもとにして、つぎのようにのべる。
「(鉄器出土量は、)古墳時代の初めまで一貫して北部九州や中部九州の圧倒的な量におよばないことは、一目瞭然だ。とくに畿内地方は寥々たるものだ。
その後の集計でも、(弥生時代)後期から古墳時代初めの鉄器出土量の様相は変わらない。」
この拙論で示した上の方にある図の「弥生時代の鉄鏃の県別出土数」は、寺沢薫氏が、指示または支持された川越哲志氏の『弥生時代鉄器総覧』によっている。
(a)なるべく「邪馬台国畿内説」を取る研究者が提示または支持しているデータを用いる。[そのデータ(県別 弥生時代の鉄族の出土数)からは、「邪馬台国畿内説」を導き出せないこと、あるいは「邪馬台国畿内説」と矛盾をもたらすことを示すため。]
(b)「鉄製品」などのように、同類データの多い場合は、「鉄鏃」など代表的なもののみを用いる。過度に、一つの答えが有利にならないように留意する。
■「棺あって槨なし」
『三国志』の筆者は、葬制には関心をもっていた。つぎのように各国ごとに、いちいち書き分けている。
「韓伝」・・・「棺(内棺)ありて槨(外箱)なし。」[藤堂明保監修『倭国伝』(学習研究社刊)に、「(韓では)槨ありて棺なし」とあるのは、誤りとみられる。考証学者、廬弼(ろひつ)の『三国志集解(さんごくししつかい)』『百納本(ひゃくのうぼん)三国志(紹煕本)』、いずれも「棺ありて榔なし。」とする。]
「夫余伝」・・・「厚葬(贅沢な埋葬)にして、槨ありて棺なし。」
「高句麗伝」・・・「厚く葬り、金銀財幣、送死に尽くす(葬式に使い果たす)。」石を積みて封(塚)となし、松柏を列(なら)べ種(う)う。」(この記述は高句麗の積石塚とあう。)
「東沃沮(とうよくそ)伝」・・・「大木の槨を作る。長さ十余丈(二十四メートル余)。一頭(片方の端)を開きて戸を作る。新(あら)たに死するものは、皆これに埋め、わずかに形を覆(おお)わしむ(土で死体を隠す)。皮肉尽くれば、すなわち骨を取りて槨中に置く。」
「倭人伝」・・・「棺あって槨なし。土を封じて冢(つか)を作る。喪(なきがら)を停(とど)むること十余日(もがりを行なう)。」
このように、倭人の葬制は「韓」とは基本的に同じであるが、「夫余」「高句麗」「東沃沮」のいずれとも異なっていることを記している。
日本で「もがり(死者を埋葬する前に、しばらく遺体を棺に納めて弔うこと)」が行なわれたことは、『古事記』『日本書紀』に記述がみえるし、沖永良部(おきのえらぶ)島では明治のころまで行なわれていた(斎藤忠『古典と考古学』学生社、1988年刊)。
畿内のばあい、「木槨木棺墓(たとえば、ホケノ山古墳)」も、「竪穴式(たてあなしき)石室墓(たとえば、桜井茶臼山古墳)」も、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわない。
邪馬台国がかりに畿内にあったとすれば、魏の使いはそれらの葬制を見聞きせずに記したのであろうか。
時代のくだった『隋書』「倭国伝」は、「死者を斂(おさ)めるに棺槨(かんかく)をもってする。」と記す。隋の使いが畿内に行ったことは、『日本書紀』に記されている。西暦600年ごろ、日本の墓には棺槨があったのだ。中国人の弁別記述は鋭い。
『魏志倭人伝』の記す「棺ありて槨なし」の墓制の地は、畿内とは、場所も、時代も、違っているようにみえる。
いっぼう、九州の福岡県前原市の平原(ひらばる)遺跡からは、四〇面の鏡が出土している。平原遺跡では、土壙(墓穴)のなかに割竹形木棺(丸太を縦二つに割り、それぞれの内部をくりぬいて、一方を蓋、一方を身とした木棺。断面は円形)が出土した。
平原遺跡の割竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲った部屋」などはない。魏志倭人伝の「棺あって槨なし」の記述に合致している。
平原遺跡の時期は、1998年度の調査で周溝から古式土師器(はじき)が出土し、また出土した瑪瑙(めのう)管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」『東アジアの古代文化』大和書房、1999年春・99号)。これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。また、平原遺跡出土の仿製鏡の製作年代は、西暦200年ごろと考えられている[前原市文化財報告書の『平原遺跡』(前原市教育委委員会、2000年刊)]。
北九州で大量に発見される「甕棺(かめかん)」や「箱式石棺」なども一貫して、「棺あって槨なし」の記述に合致するといえる。
・邪馬台国時代の墓制、箱式石棺
宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者の奥野正男氏は、つぎのようにのべている(以下、傍線をほどこし、その部分を、ゴシックにしたのは安本)。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」(『邪馬台国発掘』PHP研究所、1983年刊)
「前代の甕棺墓が衰微し、箱式石棺墓と土壙墓を中心に特定首長の墓が次第に墳丘墓へと移行していく…。」(『邪馬台国の鏡』梓書院、2011年刊)
「邪馬台国=畿内説」の考古学者の白石太一郎氏(当時国立歴史民俗博物館)ものべている。
「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも箱式石棺がみられるようになる。」
「九州地方でも弥生文化が最初に形成された北九州地方を中心にみると、(弥生時代の)前期には、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が営まれていたのが、前期の後半から中期にかけて大型の甕棺墓が異常に発達し、さらに後期になるとふたたび土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が数多くいとなまれるようになるのである。」[以上、「墓と墓地」森浩一編『三世紀の考古学中巻三世紀の遺跡と遺物』(学生社、1981年刊)所収]
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コラム2 「箱式石棺」について
「箱式石棺」については、たとえば、斎藤忠著『日本考古学用語辞典』(学生社、2004年刊)の、「箱式石棺」の項に、つぎのように記されている(全文ではなく、一部)。
「箱式石棺(はこしきせっかん) 遺骸を埋葬する施設をいう。主として弥生時代から古墳時代に発達した。箱形組合石棺・組合式箱形石棺・箱形組合式石棺などともいわれているが、同じ構造のものである。自然に裂き剥がれ易い緑泥片岩・安山岩・頁岩(けつがん)等の石を利用して扁平な板状の石材となし、側壁と小口とに組み合わせて箱形につくるもので、底板もあり、蓋石も設けられていることが多い。組み合わせであるので、あらかじめ棺をつくリ、遺骸を納めてはこんだものではなく、箱形の土壙(墓あな)を掘り、その辟面にぴったりするように、底石と側壁・小囗とを構成し、遺骸を納め、蓋石をかぶせたものである。底石のないものもあり、側壁も幾枚か並列したものもあり、蓋石のないものもある。弥生時代のものにもみられ、ことに北九州に例が多い。」
○甲元真之氏・山崎純男氏
「(甕棺墓は)弥生時代の中頃になると、熊本県北部にまで分布するようになりますが、弥生時代の後期(紀元後二世紀)に入るとほとんど姿を消すようになってゆきます。」(『弥生時代の知識』東京美術刊)
○浜石哲也氏(福岡市埋蔵文化財センター)
「甕棺墓の形成時に比べ、その終焉はきわめて唐突な感がある。弥生時代の後期初頭に甕棺墓は激減し、前半にはほとんど消滅してしまう。」(福岡市立歴史資料館編集・発行『早良王墓とその時代』)
○柳田康雄氏(福岡県教育庁文化課)
「(弥生)後期中頃になると土器棺である甕棺墓が、姿を消し、箱式石棺や土壙墓に後漢鏡が副葬されるようになり……。」(「三・四世紀の土器と鏡」『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』)
○原田大六氏
「北部九州の弥生墳墓のひとつである甕棺は、後期後半頃から急速に姿を消し始める。」(『邪馬台国論争』三一書房刊)
「筑前中牟田遺跡(福岡県夜須町)は弥生中期の甕棺墓地上に、小盛土をして箱式石棺を埋没していたと言われ箱式石棺が甕棺よりも後出的であったことを示す好例である。」(『日本国家の起源 上』三一書房刊)
○森貞次郎氏
「甕棺墓の衰退期 弥生後期の中ごろになると、甕棺墓の制度は衰退期にはいる。後期にはいって甕棺の墓制に替わってしだいに盛行するのは、組み合わせ箱式石棺墓や、土壙墓・石蓋土壙墓であり、……。」(『古代の日本3 九州』角川書店刊)
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・箱式石棺の県別分布
2015年に、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博(もぎまさひろ)氏の『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社刊)という大著が刊行されている。
価格は、二万円プラス税でかなり高価な本である。
この本は、邪馬台国問題を考えるにあたって、かなり重要な情報を提供しているとみられる。
茂木雅博氏の『箱式石棺』にのせられている「全国箱式石棺集成表」にもとづき、北九州の地図の上に、弥生時代後期の箱式石棺の分布をプロットすれば下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)

弥生時代後期の箱式石棺は福岡県朝倉市に多く分布する。
茂木雅博氏の『箱式石棺』により、箱式石棺の、県別の出土状況をみると、下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
弥生時代後期の箱式石棺の出土数は福岡県が一番多い。岡山県が6位で、奈良県は0である。
また、庄内様式期の鏡の出土数は下記となる。

このグラフの奈良県の3個はホケノ山古墳出土の鏡で、今での邪馬台国の会での説明からホケノ山古墳が庄内様式期の鏡でないとすると、3個は0個となる。
鉄鏃、箱式石棺、勾玉、卜骨、鏡、絹のように、『魏志倭人伝』に記載してあるものの出土を一覧にすると下記となる。
下の図をみれば、いわゆる西晋鏡の鉛同位体比は、あきらかに、それ以前のものと違っている。後漢時代の鏡とは、鉛の同位体比の分布が異なる。
(下図はクリックすると大きくなります)
(下図はクリックすると大きくなります)

この結果からも、福岡県、岡山県、奈良県は同じような関係にあることが分かる。
以上から、『魏志倭人伝』に記載がある遺物の出土状況における福岡県、岡山県、奈良県の関係は同じパターンとなり、出土数からみるととき、邪馬台国を奈良県にもっていってよいのなら、邪馬台国は20~30の都道府県のどこにでももって行ける。奈良県は特徴うを示していない。
このように、出土物からの結果は福岡県に邪馬台国があったことを示いている。