西晋と東晋の領域地図を示すと下図のようになる。
東晋の支配地域は南の方へ移る。
(下図はクリックすると大きくなります)

中国の西晋と東晋、日本の北九州と近畿、更に鏡種との関係を説明する。
下図の「位至三公鏡」の分布をみると、北部九州と洛陽とに、つながりがあったことが分かる。
これは、蝙蝠鈕座内行花文鏡も同じである。
鏡が、わが国へ到達した2つのルート、
(A)北中国ルート
(下図はクリックすると大きくなります)
青銅鏡の県別分布の中心が、北部九州の福岡県から、近畿の奈良県へとうつる。
日本と国交を持った西晋の国のころまでの鏡などが、すべて福岡県を中心に分布することは、西晋の国のまえの魏の時代の邪馬台国が、北九州にあったことを強くさし示す。
そして、西晋の国の存続期間は、西暦265年~316年である。したがってわが国において、鏡の世界での地殻大変動がおきたのは、西晋の国のあとの320年~350年ごろとみられる。
「位至三公鏡」などの西晋時代ころの鏡も、北部九州を中心に分布しているところから見ると、やはり、邪馬台国は、九州にあったようにみえる。
邪馬台国勢力は、卑弥呼の時代のあとも、西晋王朝と国交をもっていたことを、中国の史書は、伝えている。
重要な統計的法則(青銅鏡出土分布の法則)
鏡の県別出土数の分布において、西晋時代(265~316)までの鏡は、一貫して、福岡県を中心として分布する。
鉄の武器、勾玉、絹、甕棺・箱式石棺などの「棺あって、槨なし」タイプの墓制などもこれにならうとみられる。よって「棺あって、槨なし」タイプの甕棺・箱式石棺墓出土鏡も、この法則にしたがう。
それが東晋の時代になると、変わる。
下図のように、「画文帯神獣鏡」が、中国の南から、近畿の方へ行くルートになる。そして、中国では1枚も出土しない「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土して来る。
(B)南中国ルート
(下図はクリックすると大きくなります)
「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」の日本での県別の出土分布は下記となる。
(下図はクリックすると大きくなります)
また、前方後円墳の分布をみると下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」と前方後円墳の分布をみると、同じ傾向があることが分かる。
このことは、「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」は古墳時代のものであると考えられる。
上の方の図の、『洛鏡銅華』による洛陽地域における西晋時代の鏡の鏡種分布で、「画文帯神獣鏡」が1面出土している。中国の北のものと思われる。「画文帯神獣鏡」は古いのではないかとの意見があるが、圧倒的に多くは東晋時代のものと考えられる。
雲雷文内行花文鏡についても同じようなことが言える。
弥生時代から出土するものは、北九州から出土するが、古墳時代のもは、近畿地方を中心に出土する。
この時代の変化は、下図の「鏡の世界」と「銅鐸の世界」とは、「鏡の世界」に統一された によって説明できる。
(下図はクリックすると大きくなります)
詳細は、 第429回(2025.4.20)「邪馬台国の会」を参照、
「位至三公鏡」の日本での出土をまとめると、下の表のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
「位至三公鏡」は弥生時代から出土し、古墳時代からも出土している。
奈良県からは確実な出土例がない。両時代で一番多いのは福岡県である。
「位至三公鏡」は西晋の時代に九州に送られて、古墳時代になっても、北九州は中国と繋がっていたのであろうか。
■補足の意見
・王仲殊氏(中国社会科学院考古学研究所所長など)の発言
「二世紀の後漢の時代から、三世紀の三国時代にわたって、中国の江南地方では、神獣鏡の製作が盛んに行なわれ、それには画文帯同向式神獣鏡も含まれています。少数ではありますが、華北地域でも、画文帯同向式神獣鏡が出土しています。考古学発掘調査の全体から見ますと、画文帯同向式神獣鏡の主要な産地は、やはり江南の呉の地になります。これは既に、学界の公認するところであります。」[『三角縁神獣鏡と邪馬台国』(梓書院、1997年刊)94ページ]
・中国北方では、銅原料が不足していた
魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。中国からわが国には、銅原料のはいりにくい時期があった。
このことについて、中国の考古学者、徐苹方氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。
「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。・・・・」
・鏡の世界における「二大激変」の時期と、「連続性」「非連続性」[下図参照]
(下図はクリックすると大きくなります)
これをまとめると下記となる。
280年ごろ
中国で西晋、日本で庄内式土器の時代
中国の北方系から南方系の銅原料に変わった。
320年~350年ごろ
中国で東晋、日本で古墳時代の始まり(布留式土器)
中国の南方系の銅原料で変わらない。
・大和書房の社長で、古代史研究家であり、かつ、雑誌『東アジアの古代文化』を編集した大和岩雄氏は、「『卑弥呼の墓』と『卑弥呼の鏡』」(『東アジアの古代文化』96号、1998年夏号)という文章のなかで、三角縁神獣鏡についての、いわゆる「特鋳説」を説く岡村秀典氏の文章をつぎのように批判し、あきれておられる。
「三角縁神獣鏡が中国本土から一面も出土していないことと、『魏志』倭人伝に『銅鏡百枚』が卑弥呼の『好物』と書かれていることから、卑弥呼が特別に注文した特注(鋳)品、つまり三角縁神獣鏡は『卑弥呼の鏡』という(岡村秀典氏らの)説がある。」
「魏の朝廷では、激論の末、海のかなたからはるばる朝貢してきた卑弥呼にさまざまな引き出物を与えることを決定し、『急ぎ』特注品を『数ヶ月』で調製し、景初三年に魏の都に来た倭吏に渡し、さらに正治元年には三角縁神獣鏡は『厳重に箱詰めされ、まとまって倭にもたらされた』と(岡村秀典氏は)書く。岡村の小説風文章は問題である。魏の朝廷の激論や、特注品の数ヶ月での製作、箱詰めにしての発送などは、文献史料上の根拠はまったくない想像である。」
・2018年1月18日(木)の『毎日新聞』の夕刊に、「三角縁神獣鏡製作地論争 画期的な『国産説』の登場」という記事がのっている。
そこでは、毎日新聞社の伊藤和史氏が、工芸文化研究所所長の金石学の専門家、鈴木勉氏の業績を、紹介されている。
鈴木氏は、「三角縁神獣鏡」鋳造のさいの加工痕を分析され、加工痕の特徴が、出土古墳ごとにまとまりを示すことから、三角縁神獣鏡は、出土古墳の近くで製作された、とする。
その記事のなかで、伊藤和史氏は記す。
「『倭の好む鏡を魏が特別につくって贈った。だから中国にはない』とする(三角縁神獣鏡についての)『特鋳説』があるが、考古学の常道にないアクロバット的学説だろう。」ふつうの人が、おかしい、と思う感覚を、専門家が、おかしいとは、思わなくなってしまっているのである。
政治家ではない京都大学の教授が、トランプ大統領なみに、「ファクトチェック(事実確認)」を大幅に必要とするような文章を書いてどうするのか。いくら権威者や行政機関が宣伝をしても、一足(いちた)す一は、三にはならない。政治と科学とは別である。
■「位至三公鏡」の年代
岡村秀典氏は、その著『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999年刊)のなかで、つぎのようにのべる。
「漢代四〇〇年間の鏡は、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ五〇年前後の目盛りでつぎのように大きく七期に区分する。
漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期)
漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半)
漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
漢鏡4期(前一世紀後葉から一世紀はじめ、前漢末から王莽代)
漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期)
漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期)
漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期)
これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国代の中国鏡を八期に大別することにする。」
ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』をまとめた上の方の表[わが国出土の「位至三公鏡」(「双頭竜鳳文鏡」を含む)]を、今一度ご覧いただきたい。
この表には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
「漢鏡6期」に属するもの…………………11例
「漢鏡7期」に属するもの…………………7例
(うち、「7期」とのみあるもの3例。「7-1期」とあるもの4例)
これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。
実年代で、「二世紀前半~三世紀はじめ」のものとなる。つまり、「卑弥呼遣使以前」の年代となる。
ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の 位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265~316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。
「位至三公鏡」は、岡村氏の著書によれば、卑弥呼の遣使以前のものとなり、岡村氏の監訳本によれば、卑弥呼の死後のものとなる。
なぜ、こんなことになるのか。
それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
わが国において、「位至三公鏡」の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の[後漢中期]から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265~316)のものである。[三角縁神獣鏡]は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、布留式土器の時代のものなのである。
岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。一方では、後漢代になっているものが、一方では、西晋代になっている。監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。前にのべた「出土」と「採集」とのくいちがいのばあいと、話の構造が同じである。
岡村秀典氏の著書の『三角縁神獣鏡の時代』のなかで示されている年代は、いろいろな異論があるなかでの、岡村氏の「推定値」「設定値」である。「西晋」時代のものとする監訳本のほうが、信頼度は高いとみられる。
■鉛同位体比の測定値
「位至三公鏡」(とくに、わが国出土の位至三公鏡)が、西晋時代以後のものとする考えをサポートする別のデータがある。「位至三公鏡」などの鉛同位体比の測定値である。
銅のなかにふくまれる鉛の同位体比によって、銅の生産地や、鏡の製作年代を、あるていどまで知ることができる。
鉛には、質量(乱暴にいえば地球上ではかったばあいの重さ)の異なるものがある。鉛は、四つの、質量の違う原子の混合物である。その混合比率(同位体比)が産出地によって異なる。
鉛には、質量数が、204、206、207、208のものがある。つまり、四つの同位体(同じ元素に属する原子で、質量の違うもの)がある。鉱床の生成の時期によって、鉛の同位体の混合比率が異なる。いわば、黒、白、赤、青の四種の球があって、その混合比率が産出地によって異なるようなものである。
鉛同位体比研究の重要な意味は、青銅器に含まれる鉛の混合率の分析によって、青銅器の製作年代を、あるていど推定する手がかりが与えられることである。
とくに、質量数207の鉛と206の鉛との比(Pb-207/Pb-206 Pbは鉛の元素記号をあらわす)を横軸にとり、質量数208の鉛との比(Pb-208/Pb-206)を縦軸にとって、平面上にプロットすると、多くの青銅器がかなり整然と分類される。
それによって、青銅器の製作年代などを考えることができる。
すなわち、古代の青銅器は、大きくは、つぎの三つに分類される(下図参照)。

(1)「直線D」の上にほぼのるもの
もっとも古い時期のわが国出土の青銅器のデータはこの直線の上にほぼのる。「直線D」の上にのる青銅器またはその原料は、雲南省銅あるいは中国古代青銅器の銅が、燕の国を通じて、わが国に来た可能性がある。細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈、多紐細文鏡、菱環式銅鐸などは、「直線D」の上にのるグループに属する。
「直線D」の上にのる鉛を含む青銅器を、数多くの鉛同位体比の測定値を示した馬淵久夫氏(東京国立文化財研究所名誉研究員、岡山県くらしき作陽大学教授)らは、朝鮮半島の銅とするが、数理考古学者の新井宏氏は、くわしい根拠をあげて、雲南省銅あるいは中国古代青銅器銅とする[新井宏著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007年刊)参照]。
(2)「領域A」に分布するもの
甕棺から出土する前漢・後漢式鏡、箱式石棺から出土する雲雷文「長宜子孫」銘内行花文鏡、小形彷製鏡第Ⅱ型、そして、広形銅矛、広形銅戈、近畿式、三遠式銅鐸などは、「領域A」に分布する。弥生時代の国産青銅器の多くも、この領域にはいる。
(3)「領域B」に分布するもの
三角縁神獣鏡をはじめ、古墳から出土する青銅鏡の大部分は「領域B」にはいる。ほぼ、西暦300年ごろから400年ごろに築造されたとみられる前方後円墳から出土する鏡の多くは、この領域にはいる。
ところで、わが国で出土している「位至三公鏡」「双頭竜鳳文鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」「夔鳳鏡(きほうきょう)」など、私が、「いわゆる西晋時代鏡」とよぶものの鉛同位体比は、つぎのような重要な特徴をもつ。
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「いわゆる西晋時代鏡」にみられる鉛同位体比の特徴(前の方の「位至三公鏡」の県別出土数の図参照)
(1)「位至三公鏡」「双頭竜鳳文鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」「夔鳳鏡(きほうきょう)」などの西晋時代鏡は、北九州を中心に分布する(前の方の「西晋鏡」の県別出土数の図参照)
(2)これらの鏡は、中国では、おもに華北に分布する。洛陽を中心とする形で分布する。
(3)それにもかかわらず、わが国出土のこれらの鏡の鉛同位体比は、「双頭竜鳳文鏡」をふくめ、つぎの古墳時代に出土する「三角縁神獣鏡」や、「画文帯神獣鏡」などに近い。そして、
上の「タイプ別の鉛同位体比の分布範囲」の図の「B領域」の付近に分布する。華中・華南産の銅が用いられている。華北の銅原料ではない。つまりこれらの鏡は、それら以前の時期の中国北方系の特徴をもつ鏡と、それ以後の南方的特徴をもつ鏡との中間的・橋わたし的な特徴をもつ。文様は北方的で、原料は南方的である。
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三角縁神獣鏡は主にBの分布域に分布しており、前漢鏡は主にAの分布する。(下図参照)
下図は、前漢と後漢とのあいたの、「新」の国の王莽(おうもう)の時代に、最初に鋳造されたとされる「貨泉(かせん)」と、「三角縁神獣鏡」との鉛同位体比を示したものである。

「貨泉」は、現在の十円銅貨と、ほぼ同じ大きさのコインである。
この図をみれば、つぎのようなことがわかる。
(1)わが国出土の「貨泉」は、すべて、華北の銅が用いられでいるとみられる。(「直線D」の上にのるような、前代の銅は、用いられていない。)
(2)「貨泉」と「三角縁神獣鏡」の分布領域は、はっきり異なる、弁別できる。
下図は、三角縁神獣鏡はB領域だが、その領域にある景初三年とか景初四年の鏡は中国の南の銅を使っている。これは、東晋時代の銅が日本に来て、作られたのではないか。
歴史の問題は、データを基にして、議論を進めるべきで、頭の中で勝手に考えばよいというものではない。
位至三公鏡の重要性、位至三公鏡が一つのポイントとなっている。そこから後は中国の南の銅が使われている。それは、西晋時代は4世紀の初めらしい。その頃まで、邪馬台国の残存勢力は九州の北部にいたらしいということである。