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第442回 邪馬台国の会(2026.7.26 開催)
弥生時代の製鉄について
「太陽の塔」の堅牢性「パラレル年代法」の正確性について
邪馬台国問題についての四つの基本重大問題の解決


 

1.弥生時代の製鉄について

・『古事記』に、次のような記事がある。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、弟の須佐の男(すさのお)の命(みこと)の乱暴に怒って、天の岩屋(あまのいわや)にかくれる。
そこで、八百万(やおよろず)の神(かみ)は、天の安の河の河上の天の堅石(あめのかたしわ)[鉄を鍛える金敷(かなしき)の石か]を取り、天の金山(あめのかなやま)の鉄を取って、鍛人(かぬち)[鍛冶(かじ)職。鍛人(かぬち)は、金打(かねうち)の省略]の天津麻羅(あまつまら)をたずね求め、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)に命(めい)じて、鏡を作らせた。

この話によれば、この時に作られた鏡は鉄の鏡であったことになる。
それでよいのであろうか。
皇学館大学教授の国文学者・西宮一民(にしみやかずたみ)氏校注の『古事記』(新潮社刊、新潮古典集成)では、
(1)「天の堅石(あめのかたしわ)」を、「高天の原(たかあまのはら)の堅い石。鉄を鍛(きた)える金敷(かなしき)の石」とする。
(2)「天の金山(あめのかなやま)」を、「高天の原の鉱山。砂鉄を含む山であった」とする。
(3)「鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)」を「鍛冶職(かじしょく)。『鍛人(かぬち)』は、『金打(かなうち)』の約」とする。
(4)「伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)」を、「鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖神」とする。

また、青木和夫氏他校注の『古事記』(岩波書店刊、日本思想大系1)では、「伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)」について、「補注」で、つぎのように説明している。「コリは固まるの意、ドメは老女。石の鋳型に溶かした鉄を流し固まらせて鏡を作る老女をあらわす。」
注:『日本書紀』では「石凝姥(いしこりびめ)」としている。


・「天の金山の鉄」という表現は、あるいは妥当?
さて、ここで、『古事記』に、「天の金山の鉄(あめのかなやまのくろがね)」とあるものが、文献の編纂される時代とともに、つぎのように変化している。
「天(あめ)の金山の鉄(かなやまのくろがね)」(712年成立の『古事記』)
「天(あま)の香山の金(かぐやまのかね)」(720年成立の『日本書紀』の一書)
「天(あめ)の香山の銅(かぐやまのあかがね)」(807年成立の『古語拾遺』)
「天(あま)の金山の銅(かなやまのあかがね)」(830年ごろ成立かとみられる『先代旧事本紀』)
「天(あま)の香山の銅(かぐやまのあかがね)」(830年ごろ成立かとみられる『先代旧事本紀』)

『古事記』では、鏡を作った状況を、次のように記している。
「天の安(やす)の河原(かわら)の河上の、天(あめ)の堅石(かたしわ)を取り、天(あめ)の金山(かなやま)の鉄をとって、鍛人(かぬち)[金打(かねうち)をする人]天津麻羅(あまつまら)をさがしだし、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)に命じて鏡をつくらせた。」

この文によるとき、金床(かなどこ)[堅石]の上でトンテンカン、トンテンカンと鉄をきたえて鏡を作ったように読みとれる。

日本刀などを見ればわかるように、鉄は、よく磨けば、人の顔などがはっきりとうつる。『古事記』では、「天の金山の鉄」を取って鏡を作ったとあるが、『日本書紀』の編纂者は、「鉄」で鏡を作ったとするのは、穏当でないと考えたのであろう。「鉄」を、一般的な「金(かね)」にあらためている。
さらに、『古語拾遺』の編纂者の斎部(いんべ)の広成(ひろなり)は、鏡は、銅で作るものと考えて、「銅」にあらためたのであろう。
しかし、「天の金山の鉄」という『古事記』の表記が、妥当なのではないかと思われる、つぎのような根拠もあげることができる。

(1)『古事記』の神話は、おぼろげな形であるが、弥生時代のことを伝えているようにみえる。
銅のなかにふくまれる鉛の同位体比の研究によれば、弥生時代から古墳時代にかけての銅は、原材料が、すべて、中国産とみられる。「天の香山」や「天の金山」で、国産の銅がとれたとは思えない。[もっとも、早稲田大学の日本史家・水野祐氏は、「〔この所伝は、〕銅鉱を採掘して、精錬して銅をつくったのではなく、山地に銅剣や銅鐸のような銅器を埋めておいて、鏡などの必要な銅器を製作しなければならないときに、その銅器を掘りだして、鋳直(いなお)し、使用した事実を反映しているとみればよい。」(学生社刊『勾玉』)とする。]

(2)卑弥呼が交渉をもった魏の国で、鉄の鏡が作られていたことは、中国の考古学者、徐苹芳氏が、つぎのように述べているとおりである。
「漢代以来、中国の主な銅鉱は、すべて南方の長江流域にあった。三国時代に南北が分裂して、魏の領域内の銅材が不足したことで、銅鏡鋳造業は少なからぬ影響を受けた。こうして魏の銅鏡鋳造業が不振となると、鉄鏡の製造が興ってきた。多くの出土例から見ると、鉄鏡の出現は後漢(ごかん)の後期からであり、後漢末から曹魏の時代にかけて盛んに製造されたが、その地域は北方に限られる。この鉄鏡はすべて菱鳳鏡(きほうきょう)であり、時には金銀で紋様が象嵌され、まことに華麗なものもあった。『太平御覧』が引く『魏武帝〔曹操〕の雑物を上(たてまつ)る疎(そ)[疎は、一条ずつにわけて意見をのべた上奏文]』には、曹操が後漢の献帝に捧げた物品の中に金銀で象嵌された鉄鏡が見える。西晋期にも鉄鏡が引き続き盛んにつくられており、洛陽の西晋墓から出土する鏡のうちで鉄鏡は位至三公鏡と内行花文鏡に次いで第三番目に位置している。北京市の順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関(かよくかん)の魏晋墓からも、すべて副葬された鉄鏡が出土する。魏晋時代の北方の地で、銅材の欠乏によって鉄鏡が盛行することは、注目しておいてよい事実である。」(三国両晋南北朝時代の銅鏡)王仲殊著『三角縁神獣鏡』学生社刊、所収)

この文のなかにみえる「雑物を上(たてまつ)る疎(そ)」(『曹操集訳注』による)に、つぎのようにある。
「皇帝の御物に、一尺二寸(約29センチ)ある金錯(さく)[めっき]鉄鏡一枚、皇后の雑物に純銀錯の七寸(約17センチ)の鉄鏡四枚、皇太子の雑物に純銀錯の七寸の鉄鏡四枚、貴人、公主にいたる九寸(約21.7センチ)の鉄鏡四〇枚(御物有尺二寸金錯鉄鏡一枚、皇后雑物用純銀錯七寸鉄鏡四枚、皇太子雑物純銀錯七寸鉄鏡四枚、貴人至公主九寸鉄鏡四十枚)。」

明治から昭和時代前期の考古学者・高橋健自(たかはしけんじ)氏が、その著『鏡と剣と玉』(富山房、1911年刊)のなかの、「八咫鏡考」で、「鉄鏡は隋時代以後」にはじめてみえる、としているのは、誤りである。

(3)そして、事実、魏代に近いころに作られたものかとみられる鉄製の菱鳳鏡(きほうきょう)[直径21.2センチ]が、岐阜県高山市国府(こくふ)の名張一之宮神社古墳(七世紀ごろの築造)から出土している。
また、大分県日田(ひた)市日向町ダンワラ古墳から、金銀錯嵌朱竜文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)[直径21.3センチ]が出土している。

この二つは、直径が、ほとんど一致している。魏の九寸鏡または、それを模したものである可能性がある。九寸鏡は、さきの文にあるように、貴人に与えられるものとすれば、卑弥呼に与えられたものとしてもおかしくはない。大分県日田市出土のものは、中国で出土例をみない紋様のようにみえるので、わが国で作られた可能性もある。そして、日田市の隣の福岡県朝倉市杷木(はき)に、香山や金山、岩屋神社という地名がある。また、これも日田市の隣の福岡県朝倉郡東峰村(とうほうむら)宝珠山(ほうしゅやま)に岩屋神社、岩屋公園などがある。これらは、いずれも、日田市役所から、二〇キロ以内の地である。(下図参照)
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・古代日本で、鉄は作られたか?
鉄については、つぎの三つを、わけて考える必要がある。
(1)鉄器の使用(使うだけなら、鉄器の製作ができなくても、外国から輸入したものを用いることができる。弥生時代のごく初期の段階から、鉄器の使用は行なわれていた)。

(2)鉄器の製作[製作だけなら、製鉄ができなくても、鍛造(たんぞう)することができる。つまり、輸入された銖材料を、まっ赤に焼いて、トンテンカントンテンカンと槌で打って、必要な形にすることができる。鍛冶(かじ)の話は、三世紀の弥生時代のことを伝えているかとみられる『古事記』の天の岩屋神話にもでてくる]。

(3)鉄そのものの製造(鉄鉱石または砂鉄から、鉄を作る)。

この(3)の製鉄はむずかしく、現在でも、日本で製鉄が行なわれるようになるのは、六世紀にはいってからであろうという人がいる。

しかし、私は、以前、鉄の専門家で、『鉄の考古学』(雄山閣出版刊)の著者である窪田蔵郎氏から、およそつぎのような話をうかがったことがある。
「鉄鉱石から鉄をつくるのには、高い技術を必要とすると考えられがちです。しかし、かならずしも、そうとばかりは、いえないのです。鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、くだけて散らないように、そっと根気よくたたいて、石の部分をとばして行けば、九〇〇度ぐらいでも、鉄はできるのです。」

実験をすると、このやり方で、鉄ができるそうである。
窪田蔵郎氏が述べていることに近いことは山本博著『古代の製鉄』(学生社、1975年刊)にも記されている。
およそ、つぎのとおりである。
「ゴーランド氏によれば、鉄鉱石から『可鍛鉄(かたんてつ)』をつくるには、銅鉱から銅を抽出するより簡単であり、還元温度も低くてよいとつぎのように述べている。
『冶金(やきん)学の知識が足りないため、鉱石から鉄を抽出するのは銅を抽出するよりも余計に知識を必要とするとある種の考古学者が主張したし、今も主張している。こういった説は、実際の冶金学者によってつぎのように確定せられた事実と正反対である。鉄の還元に要する熱度が七〇〇乃至八〇〇熱量もあればよいのに、銅に要するのは一一〇〇熱量で、鉄よりも少なくない。鞴(ふいご)も送風装置も要(い)らないのである。鉄の場合は、銅のように鎔解を必要としない。この金属は、鍛えられる鎔けない塊として得られるもので、道具や武器を作るためには槌で叩くだけでよい。』そのうえ『鉄の抽出には、鎔解が必要であるという有力な謬見(びゅうけん)[あやまった見解]が今日ですらまだ考古学者の間に明かに行なわれているが、これは、鋳鉄をまず作ってから、特殊な操作によって可鍛鉄または鋼に変える近代的方法にもとづいているのである。』

① 鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
② 鉄鉱石は、鎔解しなくても七〇〇~八〇〇度の熱度で可鍛鉄が得られる。
③ 鉄の抽出には、特定の送風装置は不要である。」

「『砂鉄の還元は・・・・炭素によるわが古代法においても、まず摂氏七百五十度位から還元が始まり千度に達すると急激に還元が完了』するというから、これもまた同じである。すなわち岩鉄でも砂鉄でも、ゴーランド氏のいう七〇〇~八〇〇度に誤りないことになる。」

「略言すると、土器を焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できたわけである。北九州の各地に散布する無文緑色の土器の硬度は、この程度の熱度、またはこれよりやや高い熱度で焼いている。こうした土器が、鉄滓散布地で発見される。したがって『鉄器』をつくり出す可能性も、このようにして『鉄』を還元した地点付近と関係あることになる。」

また、黒岩俊郎著『たたら 日本古来の製鉄技術』(玉川大学出版部、1976年刊)に、『たたら製鉄の復元とその鉧(けら)について』(たたら製鉄復元計画委貝会報告)にのっているつぎのような文が紹介されている。

「京城の加藤濯覚氏の実見談を和田重之氏が記録したものによると、明治四十二年(1909)五月七日のことであるが、朝鮮咸鏡北道富寧(ふねい)の南東にあたる沙河洞の村民が、輸域河の河原できわめて原始的な製鉄をやっているのを目撃したそうで、その方法は河原によく乾いた砂鉄を六〇センチほど積みあげ、その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていたとのことである。」
わりに簡単、かつ原始的な方法によっても、製鉄は、できるのである。
このような、原始的な方法によるばあい、考古学的な遺跡・遺物は、残りにくいようにみえる。


・『朝日新聞』の記事
1995年1月13日の『朝日新聞』の夕刊に、広島県三原市八幡町の小丸(こまる)遺跡から、三世紀の製鉄炉が発見されたとの記事がのっている。
すなわち、つぎのとおりである。
[これについては、拙著『邪馬台国と出雲神話』(勉誠出版、2004年刊)にくわしい。]

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以上のようにみてくると、『古事記』神代の巻にみえる「天(あめ)の金山(かなやま)の鉄(くろがね)を取(と)りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまちまら)を求(もと)めて」などの文も、製鉄伝承として、それほど無理がないようにみえる。[『古事記』『日本書紀』にみえる三嶋(みしま)の湟咋(みぞくい)の娘の「勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)」や、神武天皇の皇后(きさき)の、「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)の命(みこと)〔比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすすけよりひめ)、媛蹈韛五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の命(みこと)〕」の「蹈韛(たたら)」については、「足で蹈(ふ)んで風を送る韛(ふいご)」、または、その「韛を用いる炉」、あるいは、「韛をふむ作業」「足ぶみをすること」などの意味であるとする解釈と、たんに、「立たれ」の古い名詞形で、「セヤダタラ」は「矢が立つ」意味であるとする解釈とがある。]

いずれにせよ、生活に密着した必要なものをつくりだす古代人の能力は、想像以上に高かった可能性がある。
広島で、三世紀に炉を用いた製鉄が行なわれていたのなら、同じ中国地方で、しかも、朝鮮半島に近かった出雲で、早くから炉を用いた製鉄が行なわれていた可能性は、十分にある。 442-02


・昔ほど、よい剣ができる
さきに紹介した黒岩俊郎氏の『たたら 日本古来の製鉄技術』には、つぎのようなことも記されている。
「多くの資源のないわが国でも、釜石、群馬、倶知安(くっちゃん)、徳舜暼(とくしゅんべつ)、赤谷などの鉄鉱石を始め、東北、関東、九州などには豊富な浜砂鉄が、また中国山塊などには山砂鉄が産出する。」

「たたらが、最高の発展段階に達したのは、山陰安来地方、船通山付近一帯であり、それは、ごく最近まで鉄穴流(かんななが)しが行われ、鳥上木炭鉄工場が動いていた事によっても分る。とくに、羽内谷の鉄穴流しは、底に木材をはりつめ、鉄穴流しの最高の発達段階を示している。」

比較的低温で還元すると、直接還元という反応がおこり鉄鉱石から直接鋼(はがね)ができる。また低温であると、燐、硫黄などの不純物が入ってこず、したがって、優秀な鋼がえられる。
高温還元になると生産性は高まるが、炭素が鉄の中にとけていき銑鉄になってしまう。したがって、もう一度銑鉄から鋼をつくるという工程が必要になってくる。後で又もう一度記すが、『昔の日本刀ほどよい』のは、昔は低温でしか鋼をつくれなかったから、不純物が入っておらず、良質の鋼ができたのである。」

また、森浩一編『鉄』(社会思想社、1974年刊)のなかで、島根県教育庁文化課の石塚尊悛(たかとし)氏は、つぎのようにのべている。
中国山地は、この日本列島においても花崗岩の風化の最も進んだところであり、古来砂鉄採取には最も恵まれたところであった。すなわち量的に最も豊富な所であった。」

「近世の文献に記され、そして近代にはいってからでもまだそのままであった方法は、要するに砂鉄を埋蔵する山の一角をその崖の口からどんどん切り崩してゆくというものであった。つまり掘るのではなく崩すのである。そしてその崩した土砂を崖の下の流水に落とし、それを樋(ひ)の中へさそい入れ、鍬でさらって砂粒を流し、鉄分をすくい上げるというものである。したがってこの作業を『カンナ流し』といった。」
注:かんな〔名〕砂鉄(さてつ)=金の砂

これらの文を読めば、中国山地が、砂鉄採取に最も恵まれたところであったこと、のちの時代に船通山付近、鳥上の地などで、たたらが最高の発達段階に達すること(条件や伝統に恵まれているのであろう)、原始的な方法で製鉄するほど、よい鋼ができること、などがわかる。
私たちは、現代の高温還元の知識があるため、鋼の製造を複雑かつ困難なことに考えすぎているようである。

素戔の嗚の尊が、出雲の国の鳥髪のような山のなかにまず下ったのは、良質の鋼を産する地をおさえるためではないか。
素戔の嗚の尊は、草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)を、天上(北九州地方か)の天照大御神にたてまつっている。
これは、良質の鋼でできた剣とともに、製鉄地の支配権を、天上にたてまつったことを意味しているようにみえる。

出雲の国はまた、古来有名な玉の産地でもある。
出雲の国の経済力は、おもに、鉄と玉とによってもたらされ、それが、出雲の国からの、大量の銅鐸や剣の出土とも関係しているのではないか。

注:こう【鋼】炭素0.04~1.7パーセントを含む鉄と炭素との合金。銑鉄から平炉法・転炉法などによって製し、また、鉱石からの直接製鋼法によっても製する。

注:せん・てつ【銑鉄】鉄鉱石を溶鉱炉または電気で溶融し還元と加炭を行なった鉄。ふつう炭素2.5~4.5パーセントのほか少量の珪素・マンガン・燐・硫黄を含む。
用途上、製鋼用銑と鋳物用銑に大別。

・鉄製品
『魏志倭人伝』の記述
(1)「竹箭(ちくぜん)(竹の矢)には、あるいは鉄鏃(てつぞく)[鉄のやじり]、あるいは、骨鏃(を用いる)。」
(2)
「(魏の皇帝は、卑弥呼に、)五尺刀の刀二口を賜(たま)う。」
「五尺刀は長さ120センチほどの長い刀。銅の長い刀は折れやすいから「五尺刀」は鉄の刀とみられる。」
(3)「兵(器)には、矛を用いる。」
兵器に用いるとすれば、祭祀用の幅の広い銅矛ではなく、鉄の矛とみられる。

・『三国志』「韓伝」
其の十二国は辰王(しんおう)に属す。辰王(しんおう)、常に馬韓(ばかん)の人を用いて之(これ)に作(な)し、世世相継(よよあいつ)ぐ。辰王(しんおう)、自立して王為(た)るを得ず。
土地肥美にして、五穀及び稲を種(う)うるに宜(よろ)し。蚕桑(さんよう)することを暁(し)り、縑布(けんぷ)を作り、牛馬に乗駕(じょうが)す。嫁娶(かしゅ)礼俗、男女別(べつ)有り。大鳥の羽を以(も)って死を送り、其(そ)の意は死者をして飛揚せしめんと欲するなり。国は鉄を出(いだ)し、韓(かん)・濊(わい)・倭(わ)皆(みな)従いて之(これ)を取る。諸々(もろもろ)の市買(しばい)には皆(みな)鉄を用い、中国の銭を用いるが如(ごと)くして、又(ま)た以(も)って二郡(にぐん)に供給す

現代語訳
辰韓(しんかん)十二国は辰王(しんおう)に服属している。辰王には常に馬韓(ばかん)の人を当てていて、代々世襲である。
辰王は、馬韓から独立して王となることは出来ない。
弁辰(べんしん)の土地は肥沃で、五穀や稲をつくるのに適している。蚕を飼い桑を植えることを知っており、縑布(けんぷ)を作り、牛馬に乗ったり車を引かせたりしている。婚姻の際の礼儀風習は、男女の区別がなされている。死者を送るときは、大鳥の羽を飾る。その意味は、死者をその大鳥の羽で天へ飛翔させようとするものである。弁辰(べんしん)の国々は鉄を産出し、韓(かん)・濊(わい)・倭(わ)の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方(たいほう)・楽浪(らくろう)の二郡にも供給されている
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資料 山田新一郎「神代史と中国鉄山」
現代語への抄訳
神代史と中国鉄山
山田新一郎著(現代語訳・安本)

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鳥取県知事などであった山田新一郎氏の「神代史と中国鉄山」は、歴史学者・喜田貞吉(きださだきち)らによって創刊された雑誌『歴史地理』の第二十九巻と第三十巻に、五回にわたり連載された長大な論文である。1917年(大正六年)に書き終えられている。
原文は文語文である。
この「抄訳」では、山田新一郎氏の論文の要点のみを、現代語訳した。
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はじめに
私は、十余年、職を鳥取県に奉じたことがあって、政務上、出雲の国・伯耆の国の鉄業について、いささか心をつくした。
そのため、鉄山の知識を、多少得るにつけ、中国一帯の砂鉄は、古い時代から採取されたとみられるものであり、これらの鉄山は、神代史・出雲史などに重大な関係をもっていたであろうと思った。これを調査したいと考えていたが、その機会がなく鳥取県を去った。
しかし、この考えは、私の念頭を去ることなく、ときどき学者や好古の人などに、私の考えについて質問をし、あるいは、座談を試みたことがあった。東京大学史料編纂掛(がかり)の山本信哉氏が、この話に注意を払い、その一部を、東亜協会での山本氏の講演に引用されたので、同志を得た気持ちがした。
山本氏のすすめもあり、ついにこの小論文を起稿し、十余年来抱きつづけた考えを記すこととした。

・中国鉄山
いわゆる中国鉄は、砂鉄である。砂鉄は、火山岩、おもに花崗岩(みかげいし)に含まれている。砂鉄は、どこの場所の土のなかにも多少は存在するが、花崗岩地帯は、その中心地とみるべきである。したがって、この地質に属する中国山脈をその本場とし、播磨、但馬から、西は安芸、石見、周防地方にわたる山地の大部分は、砂鉄の鉱床といってもよい。
大日本帝国地質地図の説明書には、つぎのように述べられている。
「砂鉄の重要な産地は、広島県、鳥取県、島根県である。その他、北海道、秋田県、岩手県、宮城県、岡山県、鹿児島県にかつて少量の産出があった。中国地方の砂鉄の産地は、山陰、山陽両道の分水界の山脈地方に多い。」
中国地方の山間一帯では、むかしから、砂鉄業がいとなまれ、わが国での鉄の原産地をなしていた。
砂鉄採取がもっとも盛んで、砂鉄の中央部といってよい地は、出雲、伯耆、備後のたがいに接するあたりにある。『古事記』の鳥髪山、すなわち、いまの船通山をはさんでいる地方は「雲伯鉄」の産地で、一歩備後に入れば、明治政府が、広島藩の鉱業を継承して「広島鉱山」をおき、砂鉄業を営んだ地方に接し、わが国の産鉄の主要地である。

・砂鉄採取業
砂鉄の宿る花崗岩は、地表に露出するときは、きわめて風化しやすく、しだいに腐蝕するにしたがって、崩壊して、砂に分解するときに、砂鉄を放出する。
そのため、この地方の渓流では、降雨出水後には、土砂は流れくだり、比重の異なっている砂鉄は、水辺の一隅に集まり、黒い一帯をつくる。ただちにすくいとれる状態になる。「雨生鉄」というのは、このことである。
砂鉄は、このような状態で、みずから地表に露出するので、これを認知し、採取することだけが、人の仕事となる。
その色は黒く、一見して、普通の土砂と異なる。かつ、重さが異なり、火のなかに入れると音がする。文化の発達していない時代にも、きわめて認知しやすいものである。
砂鉄は、表面に露出して存在している。他の鉱物のように、探拡も、採掘も必要としない。だれでも発見の技師になることができ、女性でも子どもでも、採取の工人となることができる。
今日、普通に行なわれている砂鉄の採取方法は、天然に行なわれる方法を、わずかに人工で行なうものである。すなわち、腐蝕した御影石を、つるはしで打ちこわし、水流に落とし、せき止めた水流を決すれば、土砂は水に引かれて流れ下り、砂鉄は流れに沿って、一隅に集まりつもる。このように、山をけずり、土砂を水で洗い流し、残留した砂鉄をすくいとる。採鉱術は、これだけである。
これが、今日、毎年春秋の彼岸のあいだの農閑期に、農民たちの副業として行なっているところの採鉱業である。おそらくは、すべての採鉱方法のなかで、もっとも簡単で、もっとも原始的なものといえよう。
雨水が、この山地を洗い流すにつれ、流れ下る砂鉄は、伯耆の日野川を流れて、米子の東海岸に集まりつもり、波打ちぎわに、砂鉄の黒帯をなしているのを、年々見ることができる。他の川でも、同じである。日野川海口の砂鉄採取区域は、流れ下った砂鉄の採取を目的とするものであって、濡れ手に鉄の事業である。
砂鉄採取は、渓流で魚を押えるようなものである。いや、それよりも簡易なものである。

・冶金(やきん)
砂鉄の冶金法もまた、採取法と同じように、きわめて簡単である。原始的といってもよい。すくい取った砂鉄を、烈火で、わかすだけのことである。
砂鉄は、採鉱、冶金ともにきわめて簡単なもので、今日でもでなお原始的なものということができる。

・鋼鉄
砂鉄には、真砂(まさ)といわれるものがある。
真砂は十分熱すると、ただちに良好な鋼(はがね)となる。真砂は、伯耆の国日野郡の奥、すなわち鳥髪山の北部にとくに豊富で、かつ良好なものがある。「伯州刃金(はがね)」という。刀剣史にみえる「印賀鉄(鋼)」というのは、この地方の印賀の産のものである。この地には、現今でも、鋼鉄炉がある。

以上の記事を参考としたうえで、天明年間(1781~1789)に、日野山人の筆記した『鉄山秘書』の数節に目を通していただきたい。
「砂鉄は、色は浅い黄色で、粒はすこし大きく見え、握ってみると、手のなかでこたえ、砂石を握ったようであり、火にくべると、バラバラ音があるのは、質がよい。
流し取り場も、山は白砂山で、大きな石になるわけではなく、打ちくずすのはたやすく、崩れ落ちて、こまかにくだけ、流れたとき、砂中に砂鉄の多いのがもっともよい。
しかし、もっともよいばあいはまれである。また、砂鉄は非常によくても、水がなくて、流し取ることができない場所もある。
あるいは、田地に迷惑をかけ、村ざとの邪魔になって、取ることのできない場所もある。
中ほどの質の砂鉄は、白砂ではなく、『山鳥まさ』といって、色の赤く青いごく小さい砂に、土も半分まじっている山か、または、砂山でも、灰のようにやわらかな山かでとれるものである。このような山から取る砂鉄には、刃金(はがね)[鋼]はない。剣にきたえても、切れ味はするどくない。

このような山から流しとる砂鉄は、色青く、粒小さく、握ってみるとやわらかで、手の裏にこたえない。
力がなく灰を握るようなのは、銑鉄にさえならない。まして、刃金にはならない。
諸国のうちで、鉄のでるところは、播磨、但馬、伯耆、備中、出雲、石見、安芸、薩摩である。奥州にもあると聞いているが、くわしくはわからない。
上古は、強い刃金ができたので、剣も、名剣が多くできたであろう。」

明治維新のまえは、わが国の鉄は、中国の鉄山にたよっていた。中国の鉄山は、むかしは、分量の上からいって、わが国唯一の産鉄地といっても、いいすぎではない。刀剣をはじめ、はさみ、かみそり、鍬(くわ)、鎌(かま)その他の利器鉄器は、中国の鉄にたよらないものはなかった。
鋭利をもって内外にきこえた日本刀も、中国鉄がなかったならば、その名をほしいままにすることは、できなかったであろう。

・遠呂智(おろち)退治と砂鉄の産地
山間の砂鉄は、きわめて容易に認知され、容易に採取され、容易に精錬され、鉄さらには鋼鉄をも容易に得ることができるので、砂鉄採取は、早い時代におこったと考えられる。天の叢雲(あまのむらくも)の剣のでた場所は、つぎのとおりである。
  『古事記』……出雲の国肥の河上の鳥髪の地に降る
  『日本書紀』……素戔の嗚の尊は、出雲の国の簸(ひ)の川上に降る。
  『日本書紀』一書……素戔の嗚の尊は、安芸の国の可愛(え)の川上に下る。

鳥髪の山は、伯耆の国と出雲の国の境の、いまの船通山である。肥の川または簸の川は、船通山から発して西流する斐伊川で、上流に大蛇(おろち)退治の遺跡と伝えられる場所もある。
伯耆のヒノ(日野)川も、また船通山から発して北に流れる。安芸の国の可愛(え)の川とは、備後の安芸を経て、石見(いわみ)海岸にそそぐ江川(ごうがわ)で、中国第一の河である。その水源は、備後と伯耆との境に発するので、船通連山に発するといってもよい。
遠呂地退治の場所は、ここにのべたどの川の上流としても、みな鳥髪山の付近の地で、たがいに近い。
かつ、いずれも、砂鉄の主要産地に属している。宝剣が、砂鉄の主要産地から出現したとすれば、宝剣と鉄山との関係は、おおよそ推測できる。

素戔の嗚の尊が遠呂智を斬った十握の剣は、つぎのように記されている。
『日本書紀』 一書……その蛇(おろち)を切った剣の号(な)は、蛇の麁正(あらまさ)といい、これはいま(備前の)石上(いそのかみ)にある。
『日本書紀』 一書……素戔鳴の尊が蛇を切った剣は、いま、吉備の神部(かんとものお)のもとにある。

備前の石上神社にあるとしているわけで、鉄山地方からそれほどへだたっていない場所に鎮座しているのは、なんらかの因縁のあることを思わせる。
また、味耜高彦根(あじすきたかひこね)の命(みこと)が喪屋を切り伏せた神度(かんど)の剣(つるぎ)(『日本書紀』は、神戸剣)は、出雲の神戸(かんど)から出たとする説も、けっしてこじつけとはいえない。これも、鉄山との関係を感じさせる。

・おわりに
中国砂鉄はほとんど天然状態で地表に露出する準自然鉄で、きわめて認知されやすく、ほとんど原始的方法で、鉄および鋼を採取することができる。そして、その分布は、ほとんど中国山地全部の広汎な地域にわたり、まれには海岸にもおよび、文献上きわめて早く開けたとされる出雲地方をかこんでいる。鉄をもつようになった時期は早い。わが国の古典中の鉄器に関係する記事は、神代以来連続している。飛鳥(あすか)朝ごろには、中国の鉄山に豊富な産鉄のあったことは、文献的確証がある。伯耆の大原安綱(おおはらのやすつな)は、いにしえの名工で、鬼切丸を作ったと伝えられる。刀剣等の鉄器の発達などを回顧すると、結局は、中国鉄山に帰着する。わが国の産鉄の歴史は古いと想定できる。
この地方の鉱業は、今日においても、農家の副業である。農閑期に、農業者が、鉄業者に変ずる。老人も女性も子どもも、みな鉄業者で、砂鉄採取の技師であり工人である。
明治政府が、広島鉱山をいとなんだのも、末期には、採鉱が目的ではなく、農家の副業の保護のために、その事業を継続せざるをえなかったのである。
中国鉄山の鉄業は、このようなものと考えれば、この山間に住んでいる人で、そうとうな知識をもつものは、みな鉄業者とみることができる。
このように見てくれば、神代の出雲の地は、鳥髪山を中心とした出雲・伯耆・吉備の鉄山地方にかこまれて、鉄山と境域あい接している。出雲の鉄山か、鉄山の出雲か分けることができない。
(以上で、山田新一郎の論文「神代史と中国鉄山」の抄訳おわり)
窪田蔵郎(くぼたくらお)著『鉄の考古学』(雄山閣、1973年刊)[日本鉄鋼連盟勤務]

 

2.「太陽の塔」の堅牢性「パラレル年代法」の正確性について

・「年代」は、歴史を構成する脊柱(せきちゅう)である
歴史上のことを考えるさいに、「年代」が必要であることは、地図に、緯度や経度が必要であるのにも似ている。「年代」は、歴史を構成する脊柱(せきちゅう)である。
「歴史を構成する」とは、天皇や事件、遺跡、遺物を、「年代」という太い一次元の座標軸上に、統一的に位置づける作業であるともいえる。しかし、人間は、なかなかリアルに、「年代」を把握することができない。古い時代の年代は、客観的な真実の年代よりも、より古く考えがちであるという無意識の傾向をもつ。
このような傾向があるということ自体を、強く意識化し、たえず用心する必要がある。このような無意識の傾向あるいは欲求を「年代延長欲求」と名づけよう。「年代延長欲求」自体が、しばしば、日本古代史混迷の元凶(げんきょう)となっている。共同体がもつ幻想の源(みなもと)となっている。

旧石器ねつ造事件のさいは、五十万年、七十万年と、年代がくりあがっていっても、専門家も、ふしぎと思わなかった。専門家も、マスコミも、夢のような「年代」にひきずられていった。そのような年代が、教科書にものった。

『日本書紀』の記す古代の年代は、大はばに延長されている。しかし。第二次世界大戦がおわるまで、千年以上のあいだ、『日本書紀』の記す年代が、基本的には信じられていた。
第二次世界大戦以前には、『日本書紀』の記す年月日にもとづいて、「紀元節」が祝日として定められていた。
現代の古代史や、考古学の年代も、ともすれば古いほうへ、古いほうへとなびきがちになっていないか。科学的年代論の示す結果との「くいちがい」が、大きくなっていないか。そのような「くいちがい」を「年代延長欲求」によって、無意識のうちに無視したり、見おとしたりしていないか。
年代のばあい、多数意見のように見えるものに、不用意にしたがうのは、しばしばまちがいのもとである。
「年代」をリアルに把握するには、「年代延長欲求」自体を意識化し、「客観化」を教える現代諸科学の方法を援用して考える必要がある。「年代」という太い座標軸そのものをしっかりと定める必要がある。

下図に示す「パラレル年代推定法」は、第21代雄略天皇(倭王武)の年代を基点とし、そこから古代にむけて、天皇などの「代」を二十五代さかのぼって、年代を推定する方法である。
いま、この「方法」をチェックするために、逆に、倭王武の活躍年代を基点とし、そこから現代の方向に向けて、天皇の「代」を二十五代くだったばあいは、どうなるかみてみよう。
(下図はクリックすると大きくなります)

442-04


(1)西暦478年、中国の南朝宋の8代皇帝順帝準はわが国の第21代の天皇の雄略天皇と478年に外交関係をもっている。この2人はほぼ同時代の人とみてよい。

(2)順帝準は西暦479年にあたる年に、退位(死没)している。いっぽう雄略天皇は、『日本書紀』によるとき、 479年に退位(死没)している。
この2人は同じ年に退位していることになる。
このころの『日本書紀』の年代は大略信頼してよさそうである。

(3)第21代雄略天皇から25代天皇の代を下ると、第46代孝謙女帝(在位749~758)の時代となる。

(4)中国の皇帝について、倭王武の時代に対応する南朝宋の8代皇帝順帝準から、おもに日本と国交のあった、斉、梁、陳、隋、唐の国の皇帝によって、25代時代をくだると、唐の第7代皇帝粛帝享(こう)(在位756~762)になる。

以上をみてきたように、孝謙天皇と。粛帝享とは、退位年が、4年しか異ならない
年代推定の精度はかなりよいといえそうである。
さらに、パラレル年代法により、唐王朝の末までの年代を比較してみる。(上図参照)。
順定準から数えて、38代目の哀帝祝(しゅく)の時代に、唐王朝は滅亡している。哀帝祝の退位年は、西暦907年である。
我が国において、雄略天皇から数えて38代目の天皇は宇多天皇である。宇多天皇は、897年に退位している。

中国の哀帝祝の退位年は907年と、宇多天皇の退位年897年とは、10年の差があるだけである。この間、準定順(そして、雄略天皇)の死没年の472年以後、およそ420年ほどの年数が経過している。
420年間ほどの時間の経過で10年ほどの年代差。これはかなり小さいといえる。
わが国の大和朝廷は歴史の始まり以来、一系で続いているのであるから、歴史の年代の階段を構築するのにあたっての最有力な資料とみるべきものである
中国での、唐に続く五代十国の時代などでは、どの王朝がどの王朝に続くと見るべきか混乱を生じている。

・数理統計学的年代推定法
数理統計学的年代推定法は、中国の皇帝の退位年などを参考とせず、わが国の天皇の退位年が示す傾向線によって、年代推定を行う方法である。 440-02


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(1)数理統計学的年代推定法によっても、卑弥呼と天照大御神の同時代性がいえること。

(2)パラレル年代推定法によって、卑弥呼と天照大御神との同時代性がいえること。

(3)天照大御神から、第21代天皇の雄略天皇までの、25人(神)の、天皇クラスの人(神)において、女性は天照大御神ただ一人(神)であること。
対応する時代の、中国の皇帝斉王芳から、準定順までの25人において、女性は1人もいない。明らかに男性優位の時代において、卑弥呼と天照大御神とが共に女性とされていること。

(4)すでに、すくなくない学者、研究者が、卑弥呼と天照大御神との、事績の類似性、同一性を指摘していること。

白鳥庫吉氏(1865~1942)は、明治期の東京大学を、いな、わが国を代表する史家であった。東洋史学の開拓者であり、かずかずの新研究を発表するとともに、多くの研究者を育成した。
白鳥氏は、明治四十三年(1910)に発表した論文「倭女王卑弥呼考」の中で、「魏志倭人伝」の「卑弥呼」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神」に関する記事内容とを比較している。そして、その二つの記事内容について、「その状態の、酷似すること、何人も之(これ)を否認する能(あた)わざるべし。」と述べている。

「つらつら神典(『古事記』『日本書紀』)の文を考えると、天照大御神は、素戔嗚(すさのお)の尊(みこと)の乱暴な振るまいを怒って、天の岩戸に隠れた。このとき、天地は、暗黒となって、万神の声は狭蠅(さばえ)のごとく鳴りさやぎ、万妖がことごとく発した。ここにおいて、八百万(やおよろず)の神たちは、天の安の河原に神集(かんつど)いに集って、大御神を岩戸から引きだし、ついで素戔鳴(すさのう)の尊を逐いやったので、天地はふたたび明るくなった。ひるがえって『魏志』の文を考えると、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無体を怒って、長くこれと争ったが、その暴力に堪えず、ついに戦中に死んだ。ここにおいて、国中大乱となり、一時男子を立てて王としたが、国中これに服せず、たがいに争闘して数千人を殺した。しかるに、その後、女王の宗女壱(台)与を奉戴するにおよんで、国中の混乱は一時に治った。これは地上に起きた歴史上の事実で、かれは、天上に起きた神典上の事跡であるけれども、その状態の酷似すること、何人もこれを否認することはできないであろう。もしも神話が太古の事実を伝えたものとすれば、神典の中に記された天の安の河原の物語は、卑弥呼時代におけるような社会状態の反映とみることができようか。」

昭和三十一年(1956)に、『魏志倭人伝』の訳を出した島谷良吉(しまやりょうきち)[1899~1980、高千穂商科大学(現、高千穂大学)教授]は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」のなかでのべている。
「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を解くかのように見える。」

(5)卑弥呼のいた邪馬台国と、天照大御神のいた高天の原との叙述においても、対応近似性が認められること。[前回の「邪馬台国の会」( 6月15日)。地名の残存、『魏志倭人伝』に記されている事物の出土状況など。]

系譜学者として、わが国の氏族についての厖大なデータを整理した立命館大学教授などの太田亮(あきら)氏(1884~1956)は、1928(昭和三)年に、『日本古代史新研究』(磯部甲陽堂刊)をあらわした。
太田氏は、その『日本古代史新研究』の第四編、「天神民族の故国」のなかで、およそ、つぎのようにのべる。
「中臣(なかとみ)氏も、大伴(おおとも)氏も、九州発祥の氏であるらしいが、たとえ、そうでないとしても、大和中心の氏族と離れて、九州に一族がある。中央貴族中、天孫とか皇別と称する皇室より分れたという氏族をのぞけば、大多数は、大和と九州とを中心として氏族が分布されている。そのいずれの中心が古いかといえば、私は、九州と答えたい。それは、大伴や中臣や物部(もののべ)の発祥地が、九州らしいというばかりではない。また、宇佐とか、壱岐とか、対馬、松浦とかの古い氏が、天神の子孫であると称しているばかりでもない。
また、高天の原神話が、九州を中心としているばかりでもない。
もし、これらの氏が、はじめから大和を中心として栄えたものならば、皇別諸氏のごとく、大和をのみ中心として発展しなければならない。また、近畿の国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)というような土地の領主中に一族がなければならない。しかし、事実は、これに反している。よって、ある時代に、これら貴族の中心地が、大和に大移動をしたものであって、それ以前は、九州であったと思うのである。
したがって、天祖の都城は、これを九州にもとめなければならない。すなわち、神武天皇の東征を、史実と考えるのである。九州中において、天祖の都城として、もっとも適当なのは、畿内ヤマトと同じ名をもつ肥の国のヤマトの外にないと思う。高天の原神話は、この地を中心としているらしく考えられ、また、畿内のヤマトは、このヤマトの名を移したと思われる。」

以上から、天照大御神は、歴史上の卑弥呼のことが、神話化し、伝承したものとする説は、受け入れられるべきである。

 

・邪馬台国、問題解決の方法について
卑弥呼を「わが古代史上のスフィンクス」と呼んだ笠井新也氏は述べている。
「邪馬台国と卑弥呼とは、『魏志倭人伝』中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。そのいずれか一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋であるか、あるいは、大和朝廷に関係のある女性であるかの問題は、おのずから解決する。また、卑弥呼が何者であるかどいう問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。したがって、私は、この二つのうち、解決の容易なものから手をつけて、これを究明し、その他へ考えおよぶのが、怜悧な研究法であろうと思う。」(『考古学雑誌』第十二巻第七号所載「邪馬台国は大和である」、1922年刊)

「思うに、『魏志倭人伝』における邪馬台国と卑弥呼との関係は、たがいに密接不離の関係にあり、これが研究は両々あいまち、あい援(たす)けて、初めて完全な解決に到達するものである。その一方が解決されたかに見えても、他方が解決しない以上、それは真の解決とは言いがたいのである。たとえば錠と鍵との関係のごとく、両者相契合(けいごう)[割符(わりふ)の合うように合すこと]して始めてそれぞれ正しい錠であることが決定されるのである。」[「卑弥呼の冢墓と箸墓」『考古学雑誌』三二-七、(1942年7月)]

笠井新也氏が述べていることは、邪馬台国問題探求の基本方針としては、妥当であると思う。
そして、ともに女性とされる卑弥呼と天照大御神との年代が、上の方にある図のような「太陽の塔」を考えると、ちょうど合致する。これは偶然では、なかなか起きにくいことと考えられる。割符の合っている現象のように見える。


3.邪馬台国問題についての四つの基本重大問題の解決

「邪馬台国問題」についての基本的な大きな問題としては、つぎのようなものをあげることができよう。
(1)卑弥呼は誰か。
(2)邪馬台国はどこにあったのか。
(3)卑弥呼の墓はどこにあるのか。
(4)魏の皇帝が卑弥呼に与えた百枚の鏡は、どのような鏡種の鏡か。

以上の四つの基本問題のうち、まず(1)の問題、「卑弥呼は誰か」問題については、今回、「卑弥呼は『古事記』『日本書紀』に、神話化し、伝承化された形で記されている皇室の祖先、天照大神にあたるであろう」とする年代論的根拠をややくわしくのべた。

(2)の、「邪馬台国はどこにあったのか」問題については、前回6月15日の「邪馬台国の会」でややくわしくとりあげた。すなわち、「邪馬台国(卑弥呼のいた場所)=高天の原(天照大神の居た場所)=福岡県朝倉施設」を説明した。朝倉市には、「安川」が流れており、「香山」や「金山」などの地名が存在していることなどを説明した。日本神話の高天の原に存在したとされる地名が、まとまった形で、この地に存在していることなどを述べた。
「高天の原」を「邪馬台国」の伝承したものとみる説は、すでに紹介したように、太田亮(あきら)氏なども、説いている。

系譜学者として、わが国の氏族についての厖大なデータを整理した太田亮(あきら)氏(1884~1956)は、1928(昭和三)年に、『日本古代史新研究』(磯部甲陽堂刊)をあらわした。太田亮氏は、この本のなかで、「邪馬台国=高天の原説」をのべている。太田亮氏は、種々の氏族の地域的分布などから、高天の原を邪馬台国であるとし、それを、肥後の菊地郡の山門を中心とする地にあてた。

この太田亮氏の説を、のちに、「卑弥呼=天昭大御神説」を説いた東洋大学の市村其三郎教授は、その著『秘められた古代日本』(1952年、創元社刊)のなかで、「太田亮氏め高天の原肥後説は大分合理的であるように思われる。」と評している。

つぎに、(3)の「卑弥呼の墓はどこにあるのか」と、(4)の「魏の皇帝が、卑弥呼に与えた『百枚』の鏡、はどのような鏡種の鏡か」については、今年(2026年)の1月31日の邪馬台国の会でやや詳しく検討した。
すなわち、まず(4)の「魏の皇帝が卑弥呼に与えた『百枚』の鏡」は、中国での後漢時代の鏡の出土状況(鏡種別分布)、わが国の庄内様式期の鏡の出土状況(鏡種別分布)からみて、「内行花文鏡」と「方格規矩鏡」を中心とする(過半数をしめているていどの)ものとされることを論じた。

ついで、(3)の「卑弥呼の墓はどこにあるのか」問題を論じた。すなわち、福岡県糸島市出土の平原王墓は、出土鏡40面のうち、「方格規矩鏡」が32面、「内行花文鏡」が7面で、計39面、「方格規矩鏡」と「内行花文鏡」で、出土数の過半をしめ、卑弥呼の墓とみるのにふさわしい。

平原王墓の築造年代について、平原遺跡の報告書は次のように記している。
(1)2000年に刊行された『平原遺跡』(前原市文化財調査報告書、第70集、前原市教育委員会発行)では次のようにある。
「弥生後期後半~弥生終末と考えておきたい。」(114ページ)

なお、この報告書は、前原市(まえばるし)教育委員会の発行となっている。前原氏は、2010年に、二文町、志摩町と合併し、糸島市となっている。

(2)2017年に刊行された。『新訂版国史跡曽根遺跡群平原遺跡』(糸島市文化財調査報告書第10集、糸島市教育委員会発行)では次のようにある。
「弥生後期終末から古墳時代の初頭の墳墓群。」(137ページ)
いずれの報告書記述も、この王墓を、卑弥呼の時代のもの、邪馬台国時代のものとみることと、とくに矛盾しない。
「卑弥呼の鏡」にふさわしい鏡が、これほどまとまって出土している墓は、他に存在しない。

なお、卑弥呼の宮殿があったと考えられる朝倉市と、卑弥呼の墓があったと考えられる糸島市とでは、同じく福岡県の範囲であっても、場所がすこしはなれている。
これは平原王墓が、威信墓(為政者の権威を示すための墓。いわば見せびらかすための墓)であったためとみられる。
のちの時代でも、応神天皇の宮殿の軽島(かるしま)の豊明(とよあき)の宮(みや)は奈良県の橿原市大軽町(おおがるちょう)付近にあったと考えられるが、応神天皇陵墓は、大阪府の羽曳野市(はびきのし)の誉田(こんだ)にある。県じたいが異なっている。
また、邪馬台国問題を考えるにあたっては、『魏志倭人伝』に記されている事物(鉄、鏡、勾玉、----など)の出土状況などもあわせて考えるべきである。

☆『日本暦綴 日本暦西暦対照暦 上巻 西暦1年~西暦1000年』(井上大介編、辻通商株式会社、1995年刊)(上下巻セット5万円)
☆『三正綜覧』(付・陰陽暦対照表)[内務省地理局編。芸林舎、1973年刊](4000円→5000円)
☆『日本書紀暦日原典』(内田正男編著、集山閣、 1993年刊)

 

・和辻哲郎著『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)
「記紀の伝説が、じつは、魏志の伝える筑紫人の生活を背景として産まれたものにすぎない……」
もとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。」

「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位化あって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいた。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は暗示の多いものである。」

卑弥呼の前に王はいない。(『後漢』「倭伝」・・・・「倭国大いに乱れ、暦年王なし。一女子あり。名を卑弥呼という。共に立てて王となす。」)
卑弥呼の後に、もう一人女王がいた。[「台与」・・・・『翰苑』(書写の年代は、9世紀を下らない。)『三国志』の紹興本。紹興本は、12世紀の版本。]

『古事記』・・・・万幡秋津師比売の命(よろずはたとよあきずしひめのみこと)。高木の神[高御産日(たかみむすび)の命の娘。忍穂耳(おしほみみ)の命の妻。邇邇芸(ににぎ)の命の母。の二人で一代とみるべきか。両系相続。双系相続。]
一代、女王がふえると、パラレル年代法では、卑弥呼は魏の明帝(在位226年~239年)とパラレル関係にあることとなる。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の没年は、247年か、248年、明帝の没年239年との差は8年か9年。
やはり10年以下である。

邪馬台国についての、四つの基本重要問題に、私なりの解答を述べてきた。
私の解答のどこに、疑問点、問題点があるのかご検討、ご指摘いただきたい。
すでに世間に、数多く提出されている邪馬台国論についても、先の四つの基本的重要問題に対して、どのように解答しているかという観点から、検討をすべきであると思う。
しかし、邪馬台国問題の解決をむずかしくているのは、四つの基本的重要問題の解決のむずかしさそのものにあるのではない。問題はその先にある。

それは次のような問題である。
「邪馬台国問題そのものは解けない問題ではない。さらに大きな問題は、たとえ四つの基本的重要問題を解いた人がいても、生活上の利害関係などもからみ、その解答を認めない人が多いという問題である。
学問的・科学的な問題ではなく、社会的・政治的ともいえる問題である。
その社会的・政治的ともいえる問題に、どう対処すべきか。
声をあげつづけるしかないであろう。皆さんも発信していただきたい。
トランプ主義考古学反対!!
ポピュリズムの時代。事態は、ガリレオの時代と、そう変わらない。
昔教会会、今協会!!」

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