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第433回 邪馬台国の会(2025.9.28 開催)
「太陽の塔」の話(これまでに述べてきたことのまとめ・整理)
寺沢薫説と安本説との対比
「イト国東遷説」批判


 

1.「太陽の塔」の話(これまでに述べてきたことのまとめ・整理)

坂本太郎教授は、東大の史料編纂所長もされた方で、わが国で、もっとも深く、かつ広く、『古事記』『日本書紀』とその関連資料とに目を通した方々の一人とみられる。
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精緻な文献考証によって知られた坂本太郎教授は『季刊邪馬台国』の26号(1985年)所収の論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」(坂本太郎著作集第二巻『古事記』と『日本書紀』[吉川弘文館、1988年刊]所収)において、『古事記』『日本書紀』の「帝紀」は古来の伝承を筆録したものとする。[注:【帝紀(ていき)】天皇の系譜の記録
坂本太郎教授は、その根拠を明確に示したうえで述べている。

「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭の中で考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代(の天皇)から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものでないことを証する。天皇の姪(めい)とか庶母(ままはは)とかの近親を(天皇の)妃として記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。
これも古伝に忠実であることを証する。帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」

[右の系図は開化天皇は孝元天皇妃である庶(まま)母の伊賀迦色許売命を妃として、崇神天皇に継承していったことを表している。]

「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いたということも忘れてはなるまい。」


もと外務省分析官の佐藤優(さとうまさる)氏が、『知性とは何か』(祥伝社、2015年刊)という本を書いておられる。
その本のなかで、佐藤優氏はのべる。
「反知性主義とは、『実証性、客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』である。裏返して言うと、実証性、客観性を重視する習慣を身につけることによって、反知性主義者とは別の形で世界を認識することができるようになるのである。
効率的に読書をする際のコツは、現時点で自分が理解できる本と、そうでない本を仕分けすることだ。

読んで理解できる本については、特段の読書術は必要ない。読んで理解できない難解な本(あるいは論文)については、それを二種類に仕分けする必要がある。
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第一は、言葉の定義がなされていない、あるいは定義が恣意(しい)的で、しかも論理の整合性が崩れている本だ。よく言えば『独創的』な内容ということになるのだろうが、こういうテキストを読んでも、知力は向上しない。人生は短い。われわれの持ち時間は限られている。したがって、こういうでたらめなことを書いてある本を読書対象から排除することが必要だ。
第二は、積み重ね方式の知識が必要とされるものだ。例えば、金融工学の専門書を読み解きたいと思っても、偏微分に関する知識がなければ理解できない。高校数学の関数が理解できていない人が、偏微分の教科書を購入しても内容を理解できない。小中学校での四則演算に不安がある人は、高校教科書を理解することができない。
このような積み重ね方式で身につけなくてはならない知識が必要とされる本については、基礎知識が欠けていると理解できない。その場合は、自分に欠損している知識を埋め合わせる勉強をするか、あるいはそのために割く時間とエルギーがない場合には、『この分野については、自分には理解できない。それだから、信頼できそうな専門家や有識者の意見に頼らざるを得ない』と見切りをつけることになる。」


考古学の本や論文には、難解なものが多い。
私たちは、ともすれば、それを、専門性の高さのゆえに難解なのであろうと考える。こちらの不勉強ゆえに難解なのであろう、と思いがちである。
これだけ、社会的にみとめられている機関や人物が、自信をもって発言しているのであるから、と思いがちである。
しかし、ていねいに分析されよ。
考古学の本の多くは、ことばの定義が「恣意(しい)的で、しかも論理の整合性が崩れている」ために、難解になっているのである。
なぜ、そのデータから、その結論がでてくるのかわからない。木に竹を接(つ)ぐような形になっている。結論が先にあって、恣意的な言葉の用法で、結論がみちびかれる。
考古学は、発掘や調査のための「技術」でありえても、いまだ、「科学」たりえていないのではないか。
それは、現代の考古学の分野で理論家の第一人者とみられるような寺沢薫氏の議論でも例外ではない。


■寺沢薫氏の土器年代論
注:寺沢薫氏略歴
寺沢薫(Terasawa Kaoru):桜井市纒向学研究センター所長。 1950年、東京都生まれ。同志社大学文学部卒業。奈良県立橿原考古学研究所で調査研究部長などを歴任し、2012年より現職。

寺沢薫氏は、つぎのようにのべる。
「それでは、この(箸墓古墳の)『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいのだろうか。
正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値も期待することは現状では不可能といってもいい。
しかし、そうもいってはおれない。私は、制作年代のわかりやすい後漢式鏡などの中国製品の日本への流入時期などを参考に、弥生時代の終わり(弥生第4-2用式)を西暦三世紀の第1四半期のなかに、また、日本での最初期の須恵器生産の開始を朝鮮半島での状況や文献記事を参考にして西暦400年を前後する時期で考え、これを基点として、この間の時間を土器様式の数で機械的に按分する方法をとっている。つまり、それは180~200年を九つの小様式で割ることになり、一様式約二〇年、ほぼ一世代で土器様式が変わっていく計算になるわけだ。」(寺沢薫「箸中山古墳(箸墓)」[石野博信編『大和・纒向遺跡』(学生社、2005年刊所収)]。ただし、傍線にしたのは、安本)

寺沢薫氏の述べておられるところを、図で示せば、下のほうにある「寺沢薫氏の説と安本美典説との対比」のようになるとみられる。

ここで、注意すべきことは、「布留0式」とか、「布留0式新相」「布留0式古相」などの土器様式を設定して考えるのは、寺沢薫氏説にもとづくものであることである。
ここに、いくつもの問題がある。
つぎのような諸問題である。
(1)『魏志倭人伝』には、日本の土器のことなど、もちろん記されていない。また、土器に西暦年数に換算できるような年号が記されている例があるわけでもない。
これは、中国のばあい、墓から年号の書かれた墓誌とともに、鏡が出土しているのと、事情が大いに異なる(たとえば、洛陽晋墓のばあいの「位至三公鏡」など)。
土器による編年では、大まかなことしかいえない。

(2)「一様式二〇年」というような計算では、ともすれば、「様式」の数をふやすことによって、土器などの年代を、古くさかのぼらせることにつながる。寺沢氏は庄内式と布留1式とのあいだに「布留0式」という様式を定め、その「布留0式」をさらに、「布留0式新相」と「布留0式古相」とにわける。

しかし、このような細分化には批判もみられる。
たとえば、当時奈良県立橿原考古学研究所の調査研究部長であった河上邦彦氏は、のべる[河上邦彦氏は、のち、神戸山手(こうべやまて)大学教授]。
「うちの寺沢薫さんがやっているなかで、結局、布留0式だとか、布留1式だという言い方をしますが、あれの設定にはやはり問題があるわけですね。弥生の、たとえば畿内第1様式みたいなものは、二つでだいたい100年ぐらいあるわけでしょう。結局、100年もあるから、全部の器形が変わるということがあり得るんですが、ところが、彼らがやっているのは、同じ器形がだいぶ長い間続く。そのなかで何パーセントこの器形があり、この器形が何パーセントぐらいあったときを布留0式と言おうみたいな条件です。
そうしたら、すべての材料があるときにはそのパーセントが出せますけれども、二~三点しかないようなものでパーセントを出したってしょうがない。感覚論で言っているだけみたいになる。これは納得いく材料にはなりません。」
「布留0だ、布留1だという編年とその設定がだめだと言っているだけです。」(以上、「緊急鼎談 黒塚古墳発掘の意味」[『東アジアの古代文化』1998年春・95号])

また、奈良県立橿原考古学研究所の所員で纒向遺跡の最初の大部の報告書『纒向』(1976年)をまとめた考古学者、関川尚功(せきがわひさよし)氏も、「布留1式」と「布留0式」とを、とくにわけず、ほぼそれらをまとめたものを、「布留1式」とする。

関川尚功氏は、つぎのようにのべている。
「(古墳時代の)前期の前半期が長くはならないとなれば、その時期にあたる箸墓古墳も4世紀後半を大きくさかのぼるということは考えられない、ということになる。」
「前期古墳の編年内容を通覧しても、またこれまでの古墳編年の経緯からみても、箸墓古墳は4世紀の中で考えるのが適切であり、3世紀まで遡るとは考えられないのである。」(以上、「考古学から観た邪馬台国大和説への疑問(3)」[『季刊邪馬台国』130号、2016年8月刊])

考古学者の森浩一は、のべている。
「最近は年代が特に近畿の学者たちの年代が古いほうへ向かって一人歩きをしている傾向がある。」(『季刊邪馬台国』53号、1994年春号)
             
寺沢薫氏にも、年代を古くみつもる傾向がある。
私の箸墓古墳の築造年代論は、関川尚功氏とは、まったく別の根拠にもとづく。私の結論が、関川尚功氏の考古学的年代と、結果的に合致していたとしても、それをもって、私が関川尚功氏の「年代観を盲信して」などと批判されても、困ってしまう。寺沢薫氏説を、盲信せよというのであろうか。

(3)私の年代観は、つぎのようなものによっている。
(a)天皇一代の平均在位年数約十年説にもとづく、崇神天皇陵、倭迹迹日百襲姫の陵墓の年代。
(b)ホケノ山古墳出土の12年論の小枝の示す年代。
(c)箸墓古墳、東田大塚古墳出土の桃核の年代(これは、寺沢薫氏らがしめしたもの)。
(d)洛陽晋墓出土の墓誌の示す年代。(西暦265~316)

これらは、関川尚功氏の示す年代論の根拠とは、ほとんど重ならない。
また、寺沢薫氏は、ここに示した(a)~(d)に変わるべき、客観的年代を直接示す根拠を示しているとは思えない。

どうも、寺沢薫氏の論法は、ことばによる解釈によって他を論難する舞文曲筆の傾向があるように思える。
考古学的の分野での議論が、混乱する理由の一つに、用語や推論の方法の不正確さ、無頓着さがある。用語や推理の方法が不正確であるから、なんでもいえてしまう。みずからの好む任意の結論を導出できる形になっている。
(下図はクリックすると大きくなります)
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・寺沢薫氏の土器編年の「九様式」
「一様式平均二〇年」は、ともに「天皇の代の数」「一代平均在位年数は約十年」以上の根拠をもつとは思えない。

「第10代崇神天皇~第21代雄略天皇」の天皇の「代の数」は、『古事記』と『日本書紀』とで一致している。
崇神天皇の時代に活躍したとされる大彦の命の名は、埼玉県稲荷山古墳出土の「鉄剣銘文」に記されている。
崇神天皇の時代は、あきらかに、文字のある「歴史時代」にはいっている。文字のない「先史時代」ではない。
「歴史時代」の年代の考察にあたっては、考古学的資料よりも、文字資料文献資料の方を優先して考えるべきである。

「崇神天皇から雄略天皇までの代の数は12代」という情報の方が、「奈良県の土器の様式の数は九様式」という情報よりも、信頼性は、はるかに高いとみられる。
前者は『古事記』『日本書紀』に共通に見られる為政者、権力者の数である。多くの人たちによって、一人一人の事績まで、記憶されていたとみられる。

また、古代の天皇の一代平均在位年数が約十年というのは、「奈良七代七十年」といわれるように、奈良時代でさえ、ほぼ十年であったことや、同時代の中国の皇帝の在位年数によってチェックできる。これに対し後者は、現代になって、寺澤薫氏によって設定されたものであり、土器の様式などについては、日本文献にも、中国の文献にも、記載はない。一つ一つの様式の特徴や、存続期間が、どれだけ明確に定められているのか。考古学関係の方の自信と声の大きさにかかわらず、どうも「二階から目薬」のような議論としか思えない。土器はどれだけ明確にものを語ってくれるか。

(下図はクリックすると大きくなります)
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太陽の塔に登る意味
ギリシャ神話に出てくるイカロスは、蝋付けの翼をつけて飛翔するが、太陽に近づきすぎ、蝋が溶けて墜落する。
『旧約聖書』によれば、バビロン(バベル)で、人々は、天に達するような高塔を築きはじめたが、神は人間の僭越をにくみ、塔を破壊した。
しかし、この太陽の塔はイカロスの翼のようには、溶けない。バベルの塔のようには崩れない。
機械的な手つづきがもたらす事実の方が、主観的な解釈よりも、客観性があるからである。
ギリシャ、ローマの考古学や、聖書の考古学は、すべての考古学のはじまりであり、母胎であった。そして、その考古学は、神話・伝承といったものにみちびかれたものであった。
この重要な事実を忘れてはならない。「考古栄えて、記紀滅ぶ」であってはならない。

・「年代延長欲求」について
京都大学人文科学研究所の教授であった尾崎雄二郎氏は、『季刊邪馬台国』14号(1982年)に、「古代里程記事における類ハッブル定律現象について」という文章を発表しておられる。

その要点は、つぎのようなものである。
「天文学で、地球から離れているほど、星雲の遠ざかる速度も大きいという『ハッブルの定律』がある。
昔の人にとっては、都から離れるほど、その里程は、感覚的にふえていくものらしい。古代の里程記事においては、類ハッブル現象が見られるのではないか。」
都から遠く離れた場所は、遠いほど、実際の里程以上に、大きく離れているように、認識される。そしてそのように記載されがちであるというのである。
これは、尾崎雄二郎氏が、邪馬台国の里程記事に関連して、中国文献のいろいろな事例などをあげて論じられたものである。

尾崎雄二郎氏はのべる。
「自分の故郷というかホームグラウンドというか、とにかくべースになるものから離れれば離れるほど何らかの比例で主観的な距離はふえていくのではないか。山の高さも、それが高ければ高いだけ、われわれの普通の生活平面から遠ざかるわけですから、その分だけ、実際の差を超える差が加わっていくのではないか、と思うのです。」
ところで、距離についていえるこのような傾向は、また、「年代」についてもいえるようである。
古い時代のことは、客観的な年代よりも、さらに古めに認識されがちのようである。
『日本書紀』の記す古代の年代は、大はばに延長されている。年代が、事実よりも、古めに記載されている傾向がある。このことは、すでに、多くの人が論じているとおりである。
このような傾向は、わが国の史書ばかりではない。『三国史記』などの韓国の史書でも、また、みとめられる。

そのことは、明治時代の東洋史学者の那珂通世が、その著『上世年紀考』のなかで、つぎのようにのべているとおりである。
「韓史も上代に遡るにしたがい、年暦の延長せりと覚しきところあることは、ほとんど我が古史に異ならず。」
『三国史記』の「新羅本記」は、倭国の女王、卑弥乎(呼)のことを、西暦173年にあたる条のところで記すなどしている。

このような傾向は、現代人の心にも、無意識のうちに強く慟いているようである。
旧石器捏造事件のおりは、五十万年、七十万年と、年代がくりあがっていっても、専門家も、ふしぎと思わなかった。

なにか、古いものが出土したというばあい、マスコミに大きく報じられることがある。しかし、新しいものが出土したばあいは、ほとんど報道されないことが多い。
人間は。無意識の、このような心理的な傾向をもっていることは、年代などの問題をリアルに論ずるためには、強く意識化しておく必要がある。そうでないと、ともすれば、年代は、古いほうへ、古いほうへと流されがちになる。

2.寺沢薫説と安本説との対比

■寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』(2023年、中央公論新社刊)において述べる(95ページ以下)。
「『記紀』に現れる「纒向」の大王宮
最後に第九の特徴として、纒向の地がこの国の初期の天皇の都宮が置かれた場所として伝承されてきたという歴史的重要性を挙げよう。
『日本書紀』には、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(たまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(ひしろのみや)とあり、『古事記』では、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)(崇神天皇)の師木水垣宮(しきみずかきのみや)、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりひこいさちのみこと)(垂仁天皇)の師木玉垣宮(しきたまがきのみや)、大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)(景行天皇)の纒向日代宮と書く。纒向は師木(磯城)に包括される地域であるから、垂仁の纒向珠城宮が師木玉垣宮であるならば、崇神の磯城瑞籬宮は纒向水垣宮であったとも考えられる。」
この文章は、よく考証され、よくまとめられていて、基本的に正しい。

そして、角川書店刊の『古代地名大辞典』の「まきむく纏向」の項にはつぎのように記されている。
「纏向(まきむく) <奈良県桜井市>
奈良・平安期に見える地名。大和国城上郡のうち。垂仁・景行両天皇の宮伝承地。垂仁天皇は「纏向」に都をつくり 珠城宮と称したとされ、晩年には「纏向宮」で崩じたと伝承される(日本書紀垂仁2年10月条・99年7月朔条)。垂仁天皇は巻向珠城宮御宇天皇(尾張国風土記逸文)・纏向珠城宮御宇垂仁天皇(延喜式諸陵寮)・纏向玉城宮御宇天皇(日本書紀仁徳即位前紀)・纏向珠城朝廷垂仁天皇(延暦16年4月23日太政官符/類聚三代格)・巻向玉木宮大八島国所知食活目天皇(住吉大社神代記)・巻向玉城朝(古語拾遺)などとも表記される。宮の所在地について「帝王編年記」は大和国城上郡内の纏向河北里西田中(現桜井市穴師西方)に比定し、「大和志」も穴師村の西方とする。「大和志料」は穴師と巻野内の間にある珠城山付近に比定する。周辺に玉井・玉川の字が残るのはこの宮の遺称地らしい(桜井市史上)。ただし「古事記」は「師木玉垣宮」と表記する。また大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇)は「纏向の日代宮」で天下を治めたとされ、同宮を詠んだ寿歌もみえる(古事記景行段・雄略段)。景行天皇は美濃から還ったのち「纏向」に都をつくり日代宮と称したとされ、のちに伊勢から倭に還った時も「纏向宮」に居したと伝承される(日本書紀景行11年11月朔条・同54年9月己酉条)。景行天皇は纏向日代宮御宇大足彦天皇(豊後国風土記日田郡)・纏向日代宮御宇天皇(同大野郡)・纏向日代宮御宇景行天皇(延喜式諸陵寮)などとも表記される。なお左京人役連豊足らの先祖は「纏向日代宮役民之長」であったため役を氏としたという伝承が見える(続日本後紀承和10年正月丙辰条)。宮の所在地について「帝王編年記」は城上郡の巻向檜林、「大和志」は穴師村北方に比定する。
穴師集落の北方には字「樋尻」がかつて存在し、それを日代の転訛と考えたものか(桜井市史上)。また「大和志料」は寛文12年の「巻向山九ヶ村鎌数割付帳」に「都古谷〈亦檜林云〉拾町七段四畝」とあることから、都古谷(みやこだに)を宮跡とする。なお大椋官阿比太連は家の辺に大俣の楊樹があったため、推古朝に上宮太子が「巻向宮」へ巡幸した時、大俣連の姓を賜ったと伝承される(新撰姓氏録左京神別上大貞連)。
「万葉集」には「巻向の檜原」(巻7・10)が詠まれ、檜原山・春霞・小松の枝先に降る沫雪が題材とされる。(以下略) 

寺沢薫氏は述べる(『卑弥呼とヤマト王権』)
纏向遺跡の出現そのものが、三世紀初めにヤマト主権がそこに誕生していたことの証明であり、古墳時代の始まりを告げるものでもあったのである。」(97ページ)
「二世紀初め頃に誕生した倭国(イト倭国)はイト国を盟主とし、その範囲は北部九州を中心に四国南西部までをふくめた地域だった。しかし二世紀末の政治的混迷のなかで各地の首長たちによる会盟が執りおこなわれ、その結果、三世紀初め、北部九州を遠く離れた奈良盆地東南部のヤマ卜国に新たな王都(纏向遺跡)が建設された。」(189ページ)「三世紀史の大枠を組み立てると、卑弥呼の居処(政治拠点)が纏向遺跡以外にあったとは考えられない。」(186ページ)

 

■寺沢年代論に対する反証
単純年代推定法
第10代崇神天皇の活躍年代を推定すると、下のグラフのように、第50代桓武天皇の活躍年代から、天皇1代の年数から推定して、西暦356年くらいになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
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(下図はクリックすると大きくなります)
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古代の年代について考えるさい、もっとも確実なデータは、中国の皇帝についての年代である。これは中国の史書の「帝紀」により、一年単位で確実に定まる。これは文献データである。
そして、中国と外交関係をもった天皇などの年代が、ある程度定まる。
まず分析すべきは、中国の皇帝や日本の天皇などについて文献データなのである。
そして、古墳のうち、巨大なものは天皇の陵墓とされているものである。天皇の年代にもとづいて、陵墓、そして古墳の年代を考えることができる。
そして、古墳の編年にもとづいて、古墳からの出土物の年代を考えることができる。

国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者で、亡くなった佐原真(1932~2002)は述べている。
弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州地方がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代をきめるのが常道である。」(「銅鐸と武器形青銅祭器」『三世紀の考古学』中巻、学生社、1981年)

そのとおりである。
奈良県からは、西暦年数に換算できるような年号を記した土器などは、まったく出土していない。
奈良県からは、弥生時代~庄内期の鏡が、福岡県にくらべ、はるかに、わずかしか出土していない。それにもかかわらず、奈良県の土器編年などをもとに、鏡の年代を考えるのは、非常な無理がある。

寺沢薫氏の「(土器の)一様式二〇年」などというのは、漠然とした想定であって、確実な根拠に欠け、本来、一年単位で考察できるものではない。方法論自体に根本的な疑問がある。
土器の様式を細分化し、様式の数をふやすことによって、古墳のはじまりの年代を任意の時代にもっていける形をしている。

また、上の方の「図 第10代崇神天皇の活躍年代推定図」による崇神天皇の活躍年代、356年と、大略一致している。寺沢薫氏の述べるような3世紀の後半でなく、4世紀の後半である。いずれも寺沢薫氏の見解よりも、百年近くあとである。
さらに、ホケノ山古墳の築造は、崇神天皇陵古墳の築造よりも先行するとみられているが、炭素14年代推定法によるホケノ山古墳の築造年代の推定値の中央値は、西暦364年である。やっぱり4世紀の後半である。

【炭素14年代推定法による推定】2008年に奈良県立橿原考古学研究所編集発行の研究成果報告書『ホケノ山古墳の研究』が出ている。その中に、ホケノ山古墳の木槨から出土した「およそ12年輪の小枝」試料二点についての炭素14年代測定法による測定結果がのっている。そこでは、(小枝については古木効果(年代が古く出る効果)が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
測定は、自然科学分析専門の株式会社パレオ・ラボによって行なわれている。
そこで、私(安本)は、この報告書にのっている数値にもとづき、二点の小枝試料の炭素14年代BP(最終の西暦年にもとづく年代推定値を算出する途中段階の年代値)について、単位時間に計数されるカウント数にもとづく加重平均を算出し、それを、同じくパレオ・ラボに依頼し、最終の西暦年数推定値の分布の中央値(中位数、メディアン)を算出してもらった。(加重平均を算出したのは、年代推定の誤差の幅を小さくするためと、数値を二本化して話を簡明化するためである。)

中央値は、西暦364年であった
第430回(2025.5.18)「邪馬台国の会」炭素年代と履歴校正結果の中央値の図参照


■古墳時代のはじまりは、四世紀後半
寺沢薫説の八つの反証
(1)寺沢薫氏の示しているデータからは、寺沢氏の述べている結論は、でてこない(自己矛盾)。
寺沢氏は、卑弥呼の都した邪馬台国は、奈良県の地域内にあったとするが、寺沢氏の示した庄内様式期の銅鏡の、県別出土数から計算すれば、邪馬台国が奈良県に存在した確率は、ほぼ完全にゼロとなる(ベイズの統計学による)。

(2)ホケノ山古墳の築造年代を、寺沢薫氏は、庄内様式期、ほぼ卑弥呼の時代、西暦240年前後にあてる(7ページの図3参照)。
しかし、炭素14年代測定法によれば、すでに述べたように西暦364年を中央値とするような分布を示している。卑弥呼の時代よりもほぼ百年以上のちである(データとの矛盾)。
したがって、ホケノ山古墳から出土の、三面の画文帯神獣鏡などの鏡は、卑弥呼の時代、庄内様式の鏡からのぞかなければならない。つまり、卑弥呼が魏から与えられた百枚の鏡に該当する鏡は、奈良県からは、一面も出土していないことになる。ここから計算すれば、邪馬台国が奈良県に存在した確率は完全に0となる。

(3)寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社刊)の50ページで、「(ホケノ山古墳の)木槨(もっかく)を囲む石囲いは定形型の石槨(せっかく)の祖型とみることができるし、・・・」と記す。また寺沢氏は、その著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館刊)の334ページにのせられた表でも、ホケノ山古墳に「木槨」があると記している。
いっぽう『魏志倭人伝』は。倭人の墓制について、「棺はあるが、槨はない」と記す。
邪馬台国のあった場所、または時代、あるいはその両方が、奈良県(纏向)の地とは、異なることを示している(寺沢氏の記述と、『魏志倭人伝』の記述との矛盾)。

(4)中国で、『洛鏡銅華』(2013年、科学出版社刊)という本が出版されている。『洛鏡銅鏡』と題名を変更して、その訳本翻訳本も、わが国で出ている。洛陽地区で出土した銅鏡の図録である。
そこには、「位至三公鏡」系の鏡(「位は三公という高官に至る」つまり出世するという意味の銘文のある鏡)が12面のっている。いずれも「西晋」鏡とされている。「西晋」は「魏」の次の王朝で、存続期間は、西暦265年~316年で、西暦300年前後である。わが国と外交関係をもっていた。
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「位至三公鏡」はわが国では、福岡県を中心に出土している。奈良県からは確実なものは一面も出土していない。
このことは、魏の後をうけつぐ西晋の西暦300年のころまで、鏡の出土分布の中心は、一貫して北部九州にあったことを示している。そして邪馬台国およびその後従勢力が、西暦300年すぎのころまで、北部九州にあったことを、強く示している。

(5)ホケノ山古墳からは、「小型丸底土器」が出土している。「小型丸底土器」は、布留式土器を構成する重要器種である。ホケノ山古墳を、布留式土器の時代の前の庄内式期のものとみるのは、一般的ではない。

(6)ホケノ山古墳からは、「画文帯神獣鏡」が出土している。
下の地図をご覧いただきたい。
この地図は、「画文帯神獣鏡」の出土状況を示したものである。
この地図をみれば、「画文帯神獣鏡」は、中国では華北の黄河流域からよりも、華中の長江(揚子江)流域から圧倒的に多く出土していることがわかる(十倍以上)。
このことは、「画文帯神獣鏡」は、華北の洛陽に都のあった魏の時代(220~265)にわが国もたらされたものと考えるよりも、華中の建康(南京)に都のあった東晋の時代(317~420)にわが国にもたらされた可能性のほうが大きいことを示している。 433-08

さらに、わが国で出土している画文帯神獣鏡の銅原料は、銅原料に含まれている鉛の同位体比の測定によって、長江流域の銅が用いられていることが知られている。
このことも、わが国出土の画文帯神獣鏡が、主として東晋の時代のものであることを示している(一部伝世鏡があるにしても)。
すなわち、ホケノ山古墳の築造年代は、寺沢氏のように、魏の時代と考えるよりも、関川尚功氏や、小枝の炭素14年代測定値が語るように、東晋の時代と考える方が、妥当であるとみられる。

(7)上の方にある「図 寺沢薫氏によれば」が示すように、寺沢氏の説によれば、第10代崇神天皇から、第21代雄略天皇までの12代の天皇の平均在位年数が、長くなりすぎる。古代へむかって引きのばされている形になる。

(8)寺沢薫氏の議論には、難解かつ奇妙で、不透明なものが多い。簡単な具体例をひとつだけあげよう。
寺沢薫氏はその著『卑弥呼とヤマト王権』の中で述べる。
「卑弥呼は邪馬台国の女王ではない。」(281ページ)
「卑弥呼は倭国の女王なのであって、邪馬台国の女王ではない。」(283ページ)
「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」(414ページ)
しかし、中国の史書を紐解けば、寺沢氏の見解に反し、卑弥呼は邪馬台国の女王であると明記されている。

以下に、そのことを述べよう。
『魏志倭人伝』は記す。
「(帯方)郡より女王国に至るまで万二千里なり。」
『魏志倭人伝』を下じきにして書いたとみられる『後漢書』の「倭伝」に記す。
「大倭王は邪馬台国に居(すまい)す。楽浪郡の徼(きょう)[さかい]は、その国を去ること万二千里なり。」
『後漢書』の文の「その国」は、すぐ前にでてくる「邪馬台国」をさす。そして、その「邪馬台国」のことを『魏志倭人伝』は「女王国」と記す。

ここから「邪馬台国=女王国」となる。
さらにいえば、卑弥呼は倭人の国(倭国)を代表する女王であったとともに。「倭国」に属し、卑弥呼が住んでいた「邪馬台国」の女王でもあったのである。
『後漢書』を撰した中国人の史家、范曄(はんよう)は『魏志倭人伝』をそのように読んでいるのである。寺沢氏の理解するような読み方をしていない。

なお、後漢の国は、魏の国よりも、前の時代に存在したが、『後漢書』の成立は『三国志』そして『魏志倭人伝』の成立よりも後である。
後漢の時代には、帯方郡はまだ成立していなかったので、范曄はそれを、「楽浪郡の徼(さかい)」に書きかえている。(「女王国より以北は、その戸数・道里を略載することを得べし。」)
寺沢氏の著書には、この種の、独自というか、独断的な解釈がかなり見られる。寺沢氏はそのような独断的な解釈をもとに、しばしば他説を批判する。


以上の寺沢薫氏の「年代論」の骨格をまとめあげれば、次のようになるであろう。
(1)天照大神以下の神代の五代、および第1代の神武天皇以下9代の天皇の計14代については、無視する。存在しなかったようにとりあつかう。(津田左右吉流)

(2)「イト国東遷説」を述べる。しかし、イト国のだれが中心になって東遷したのかについてはふれていない。

(3)卑弥呼が、『古事記』『日本書紀』記載のどの人物にあたるかについても、ふれていないようにみえる。

(4)「ハツクニシラス」の呼称のある崇神天皇を、実在する最初の天皇のようにとりあつかい、その年代を、卑弥呼の時代に近づける。

以上のような寺沢薫氏の説に対し、私は次のように考える。
「『古事記』『日本書紀』に記されている。天照大御神以下の天皇家の系譜の、すべての存在をみとめても、とくに大きな矛盾をもたらさないのであれば、その骨格をそのまま認めるべきである。」

私から見れば、寺澤薫氏の説は、『古事記』『日本書紀』の記述からはなれて、あらたな歴史を、現代人が創作したもののようにみえる。

天皇や皇帝の在位年数については、即位年と退位年がはっきりしているデータが、相当数存在している。
いっぽう、ある土器の一様式の存続期間は、本来明確に定めうるものではない。だいたいこのていどの長さという大まかな値しか定められないものである。
たとえば、奈良時代において、天皇の治世年数以上に、正確に年代を定めるような、考古学的資料は存在しているであろうか。一年単位で年代を測れるような考古学なモノサシは、存在していない。

安本のとりあつかう「天皇の一代平均在位年数」と、寺沢薫氏のとりあつかう「土器の一様式の存続期間の平均値」とを比較してみよう。
まず、「天皇の代の数」と「土器様式の数」とを比較する。
古代においては、おもに天皇の系譜が、過去の時代を指定するのに用いられていた。

すなわち、「獲加多支鹵(わかたける)大王の寺、斯鬼(しき)の宮にある時」(「稲荷山鉄剣銘文」)、「天皇名広庭(すめらみことなはひろにわ)[欽明天皇]在斯帰斯麻宮時(しきしまのみやにいましとき)」(「元興寺丈六釈迦仏光背銘文(がんごうじじようろくしゃかぶつこうはいめいぶん)」)とか、「乎娑陀宮治天下天皇(おさだのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと)[敏達(びたつ)天皇]之世(のみよ)」(「船氏王後(ふなしおうご)の墓誌銘文(ぼしめいぶん)」)とか、「昔(むかし)、美麻貴(みまき)の天皇(すめらみこと)[崇神天皇]の馭宇(あめのしたしろ)しめししみ世(よ)」(『常陸(ひたち)風土記』)とか、あるいは、(泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天(あめ)の下知(したし)らしめしし天皇(すめらみこと)[雄略天皇]の代(みよ)」(『万葉集』)とか、「巻向玉城の朝(まきむくのたまきのみよ)[垂仁天皇]」(『古語拾遺(こごじゅうい)』)というように、どの天皇の時代のできごとであったかを記すことにより、その事件のおきた時代を指定するという方法が用いられた。

そして、古い時代は、即位ごとに、皇居の所在地が移動し、皇居の地名によって天皇を呼ぶことがおこなわれ、A天皇とB天皇の名が類似していても、それを区別することができた。古い時代においては、天皇の系譜が、現代における西暦年数とおなじように、時代を指定する役割をはたしていたのである。
『古事記』でも、『日本書紀』でも、古い時代においては、天皇の系譜記事(帝紀的なもの)が、多くの事件などを記すさいのかなめの役割をはたしているようにみえるのは、そのためである。
『古事記』と『日本書紀』とにおいて、諸天皇の代の数、名前、順序などが、ほぼ完全に一致する。

当時においては、天皇は為政者であり、政治的権力者であった。天皇の名と、その順とは多くの人たちの記憶に残りやすいものであった。
これに対し、「土器の様式数」は、寺澤薫氏が、あらたに設定したものである。異論もあり、多くの人が、時代指定のために用いてきたものでもない。

つぎに、「天皇の在位期間」と、「ある様式の土器の存在期間」とを比較する。
「天皇の在位期間」は、「即位と退位」によって定められるものである。

それはまた、当時の人の平均寿命、食糧事情、衛生状態など、広い意味での文化水準とも関係するものである。
そして、「天皇の平均在位期間」は、後代の天皇の平均在位年数の推移(後代になるほど、平均在位期間がしだいに長くなるなど)や、同時代の中国の皇帝の平均在位年数など、外国のデータなど、さまざまなデータにより、統計的に処理し、あるていど推定できるものである。
これに対して、寺澤薫氏「ある様式の土器の存在年数」は、寺澤薫氏の想定にすぎず、他に類似のものの具体例が示されているものでもない。また、統計的に処理しうるデータでもない。
このようなデータとしての質の違いを、寺沢氏はまったく理解されていない。

次のようなことばがある。
(1)「奈良七代七十年」奈良時代は第四十三代元明天皇から、第四十九代の光仁天皇までの七代、すなわち、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代で、七十四年(710~784)。この間、一代平均10.57年。桓武天皇は、はじめ784年に長岡京[京都府向日市(むこう)のあたりが中心)に都をうつしている。

(2)「君、十帝を経(へ)て、年(とし)ほとほと(ほとんど)百」この文は、奈良時代史の基本文献である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の、淳仁天皇の天平宝字二年(758)八月二十五日の条に記されている。これは、第三十六代の孝徳天皇から、第四十六代の孝謙天皇までが、十代で、104年ほどあることをのべているのである。

このように、天皇の代の数と存続期間とは、今から千年以上前の人でも知ることができた。
これに対し、土器の様式数とその存続期間とは、現代の人でも、寺沢薫氏のように理解し、記憶している人はすくない。

寺沢薫氏のとりあつかう土器編年のデータは、年代推定の「誤差」の幅などを、計算しようのないものである。
寺沢薫氏も考古学のエスタブリシュメント派の人々も、この違いを理解できていない。
「邪馬台国北部九州説」も一つの仮説である。「邪馬台国畿内説」も、また一つの仮説である。私はこの二つの仮説のそれぞれが成立する確率を計算する方法を考え、そのような計算ができる形にデータをととのえた。
寺沢氏はこのような形でデータを示していない。基本的には、日常的な言語による主観的な判断にもとづき、断言的に強く主張するという方法によっておられる。
統計学者、カール・ピアソンは、「統計学は科学の文法」と述べた。
この文法にしたがった言語を用いることによって議論を、科学の軌道の上にのせることができる。用いる言語の違いには、重要な意味がある。
邪馬台国問題が混乱する理由はここにある。

3.「イト国東遷説」批判

(1)寺沢薫氏は、「纏向は師木(磯城)に包括される地域である」と述べる。
前の方の「2.寺沢薫説と安本説との対比を参照」

(2)寺沢氏は、その「イト国東遷説」をつぎのように述べる。
「イト国の三雲・井原遺跡群からヤマト国の纏向遺跡と一気に東遷したのである。」(『卑弥呼とヤマト王権』(185ページ)

「イト国東遷説」はそんなに簡単に成立するのであろうか。疑問がある。すくなくとも、文脈的根拠に乏しい。

「国造(くにのみやつこ)よりやや早く成立したかとみられる地域支配者の名に「県主(あがたぬし)」がある。
下の地図にみられるように、文献に残る「県」は、北部九州と畿内に多い。たしかに、なんらかの「東遷現象」があったことを、うかがわせる。
433-09

文献に残る「県・県主」を示せば、下の表のようになる。

433-10この表には、確かに奈良県の「シキ(志貴)」も九州の「イト(伊覩)」もはいっている。「シキ」「イト」の地域名称の成立の古さを思わせる 。
しかし、「シキの県主」は、饒速日の命(にぎはやひのみこと)系であって、「シキの県主」系と関係をもつという伝承はないのである。

坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館刊)は、「シキの県主」について、つぎのように記す。
「磯城県主(しきのあがたぬし): 大和国磯城地方出身の豪族。志貴・師木にも作る。天武十二年(683)十月、連の姓を賜わる。磯城の氏名は大和国磯城[のちの城上郡(奈良県桜井市北部と天理市の一部など)・城下郡(奈良県磯城郡の大半と天理市の一部など)]の地名に由来し、この地には志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋)が鎮座する。磯城県主の祖については、『新撰姓氏録』大和国神別に、神饒速日(かんにぎはやひ)の命の孫日子湯支命とするが、『先代旧事本紀』天孫本紀では、饒速日命の七世孫建新川命とも、建新川命の兄十市根命の子物部印岐美(いなきみ)連公ともする。また『日本書紀』には、神武天皇東征の時に活躍した弟磯城(おとしき)を磯城県主としたとある。
なお、『古事記』『日本書紀』には、同氏の女性が綏靖(すいぜい)から孝安(こうあん)までの歴代天皇の皇妃となったという伝承がみえる。」

「イト国東遷」が行われたのならば、その時期は、崇神天皇の少し前のころのことなのであるから、『古事記』『日本書紀』にすこしは関連記事があってもよさそうである。また、纏向をふくむ「シキの地域」の県主が、「イト」と関係をもつ情報が、古文献にすこしは残りそうなものである。纏向の地は、シキの県主の管理の地のはずである。さらに、東遷に、大きな功績があったわけであるから、初期の諸天皇の后妃に、「イト国」関係氏族の出身者が存在してもよさそうである。

(下図はクリックすると大きくなります)
433-11

しかし、饒速日の命の東遷伝承は古文献に存在しても、「イト国」関係氏族の東遷は古文献に存在しない。
古文献が疑わしいからといって、現代人が歴史を自由に操作してよいことにはならない。
寺沢薫氏は『古事記』『日本書紀』の記述を疑うが、私は、「イト国東遷」が『古事記』『日本書紀』の記述以上に、信用できるとは思えない。

説をたてるならば、古文献とも整合する仮説のほうを選ぶべきである。

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