・「2000個を越す桃の種の年代測定はどうなった?」は省略します。
■はじめに
『鏡が語る古代史』は、京都大学教授の書いた本である。岩波書店から刊行されている。おもに、青銅鏡にみえる「銘文」を読んだものである。
しかし、その内容は、誤読、誤訳、勝手読みのオンパレードである。
京都大学と、岩波書店の名が泣く。
なぜ。こんなことになるのか。
「三角縁神獣鏡=魏鏡説」に、こだわりすぎるから、このようなことになるのである。
■「青祥(せいしょう)」は、吉祥なのか
この本の奥付の著者の紹介に、つぎのように記されている。
「岡村秀典(おかむらひでのり)
1957年生、京都大学文学部卒業、文学博士。京都大学助手、九州大学助教授を経て、
現在-京都大学人文科学研究所教授。東アジア人文情報学研究センター長
専攻-中国考古学
著書-『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999)
『夏王朝』(講談社、2003)
『中国古代王権と祭祀』(学生社、2005)
『中国文明』(京都大学学術出版会、2008)
『雲岡石窟の考古学』(臨川書店、2017)ほか」
岡村秀典氏は、北京大学への留学もされた方である。京都大学で、文学博士の学位もとっておられる。
そして、この本 『鏡が語る古代史』は、学術出版社の代表格ともいえる岩波書店から、新書の形で出されている。
にもかかわらず、この本は、誤読、誤訳、勝手読みの氾濫といってよい。これは、どうしたことか。
さっそく、例をあげることからはじめよう。
この本では、非常に多くの鏡の銘文の訳が示されている。
この本の79~80ページに、つぎのような文かある。(傍線を引いたのは安本。)
「岐阜県城塚(しろつか)古墳の出土と伝える『尚方作』獣帯鏡(五島美術館蔵)が制作された。径二十センチ、「永平七年」鏡と同じように四神を含む七体の瑞獣が内区にあらわされている。その銘文は整った七言八句で、次のようにいう。
尚方作竟大毋傷。
尚方鏡(しょうほうかがみ)を作(つく)るに、大(おお)いに傷(きず)なし。
巧工刻之成文章。
巧(たくみ)なる工(こう)は之(こ)れを刻(きざ)み、文章(ぶんしょう)を成(な)す。
左龍右乕辟不羊。
左龍(さりゅう)と右虎(うこ)は不祥(ふしょう)を辟(しりぞ)く。
朱鳥玄武順陰陽。
朱鳥(しゅちょう)と玄武(げんぶ)は陰陽(いんよう)を順(ととの)う。
子孫備具居中央。
子孫(しそん)備具(びぐ)し、中央(ちゅうおう)に居(お)らん。
長保二親楽富昌。
長(なが)く二親(にしん)を保(たも)ち、楽(たの)しみ富(と)み昌(さか)えん。
壽敝金石如矦王。
寿(いのち)は金石(きんせき)とともに敝(つ)き 侯王(こうおう)の如(ごと)くあらん。
青盖爲志何巨央。
青盖(せいしょう)の志(こころざし)を為(な)すや、何(なん)ぞ央(つ)きん。」
「カールグレンが考証したように、その『盖』(安本注。「青盖(せいしょう)」の「盖」)は『羊』に「皿」を加えた字で、『祥(しょう)』の仮借(かしゃ)であり、『青祥』は緑色の吉祥なる金属をいう。有志鏡工たちは『青盖』を雅号とするグループを 『尚方』工房の中に立ちあげ、「尚方作」の本鏡を試作したのである。」
安本注:かしゃ【仮借】〔名〕①漢字の分類法である六書(りくしよ)の一つ。ある意味を表わす漢字がない場合、意味は違うが同じ発音の既成の漢字を借用する方法。
たとえば、供物を盛る祭器を意味する「豆」という文字を、同音の植物を表わす文字に借用するようなもの。(『日本国語大辞典』小学館刊)
とあり、「『盖』は『羊』に「皿」を加えた字で、『祥(しょう)』の仮借(かしゃ)」としているが、仮借ではない。
この『青盖(せいしょう)』の読みと意昧とは正しいのか?
岡村秀典氏は、「青盖」は「青祥」で、「青祥」は「緑色の吉祥なる金属」と記す。
ところが、辞書を引いてみると、「青祥」という語には、「吉祥」的な意味がのっていないのである。「災禍を予兆するもの」「わざわい」というような意味しかのっていない。
収録漢字数世界最大級といわれる『漢語大詞典』(中国、漢語大詞典出版社刊)を引いてみる。
そこには、「青祥(せいしょう)」という成句がのっている。意味は、「青眚(せいせい)」のことであると記されている。そこで、「青眚」を引いてみる。すると、「青色の物によって、生みだされる(もので、)災禍をよく予兆する(あらかじめ知らせる)怪異現象をさす。」とある。このようなものが、グループの「雅号」などになりうるであろうか。
わが国で出されている漢和辞典に、諸橋轍次著の「大漢和辞典」(大修館書店刊)がある。この辞典は、説明文などをふくめた量において。世界最大とされている。
『大漢和辞典』にも、つぎのようにある。
「眚(せい)」については、「災(わざわ)い」「ふいに生じる災い」「疫病の流行など」とある。
「青祥(せいしょう)」については、「木神のわざわい」とある。
「青眚(せいせい)」については、「貌(ぼう)[外にあらわれる姿]を恭(うやうや)しくしないためにおこるわざわい。」とある。
いずれも、良(よ)い意味はない。
これらは、「吉祥」的なものとはいえない。
どこで、岡村氏は、誤りをおかしているのであろうか。
ここには、何重もの誤りが重なっているのである。
(1)岡村氏は、「祥」をかならず、「吉(よ)いきざし」の意味をさすものとしてしまっている。しかし、「祥」は、「吉いきざし」のみをさすとはかぎらない。「惡いきざし」もさす。
たとえば、藤堂明保編「学研 漢和大辞典」では、『春秋左氏伝』の「これなんの祥(きざし)ぞや、吉凶いづくに在(あ)りや」の文を引き、「祥」を、「吉凶にかかわらず、神の意向や、今後の運勢があらわれたもの。」と説明している。
(2)「盖」は、たしかに、「羊」に略されることがある。「祥」も、たしかに、「羊」に略されることがある。
だからといって、「盖」が、「祥」になったり、[祥]が「盖」になったりするわけではない。
「盖」と「祥」とが直接通じるというのなら、せめて、そのように使用されている事例をあげなければならない。

「盖」は、「漢語大詞典」は、①に、「蓋」と同じ、と記し、②に、「蓋」の字の簡化字(簡体字)である、としている。「蓋」は、ふつう「ガイ」と読み、「ふた」や「かさ」をさす。さらには、「きぬがさ(貴人にさしかざすかさ)」や「天蓋」などをさす。
「岡村秀典」氏を、「典ちゃん」と略す人がいるかもしれない。「安本美典」のことも、「典ちゃん」と略す人がいるかもしれない。しかし、だからといって「安本美典」が、 「岡本秀典」氏をさすことになるわけではない。
たとえば。藤原鶴来編「書源」(二玄社、1970刊)で、「蓋」の字を引けば、右図のようになっている。
そこには、各時代の「蓋(盖)」の字がみられるが、ここには、「祥」の字はない。
(3)辞書には、「青蓋(せいがい)」という熟語が、「青祥(せいしょう)」とは、別にのっている。「青盖(せいがい)」は、「青蓋(せいがい)」の意味にとるべきである。「青祥」の意味にとるべきではない。
諸橋轍次の『大漢和辞典』で、「青蓋」を引くと、「漢制(漢の制度で)、王の車に用いる青色のおおい。青蓋車を見よ。」とある。
「青蓋車」を引くと、「青色のおおいのある車。古く、皇太子・皇子または王の乗用としたもの。」とある。
「漢語大詞典」で、「青蓋」を引くと、「青色の車蓋。漢の制度で、皇太子や皇子の乗る車。」とある。また、「かりに、帝王を指す。」とも記されている。
駒沢大学の教授であった三木太郎氏は、「青羊作」という鏡の銘に関連し、つぎのようにのべる。(傍線は、安本)
「『青羊』の『羊』が『蓋』の省画体であることは、各種『青蓋』と鏡と『眚羊』鏡を比較すれば、暸然である。」
「では、『青羊』が『青蓋』と同一だとして、どういう意味になるのであろう。『古鏡拓影』解説は、『青蓋』を『まさに人の姓名であろう』と推測し、根拠として『鄭樵の『通志』では青氏は名をもって氏となしたもので(注では古の天子名とある)、あるいは青陽氏の後という。晋の趙襄子の参乗の青荓(せいけん)が予譲の友であると『呂氏春秋』にみえている』と記す。しかし、『青盖陳尹(ちんい)作竟(=鏡)(青蓋の陳尹が作る鏡)』『青羊畢少郎作(青蓋の畢少郎が作る)』などの事例は、人名説と相入れない。とすれば『青蓋』が、皇太子や皇子の乗る車に用いる青色のおおいを意味し、転じて『故に王を青蓋車と曰う』
(『後漢書』志第二十九『輿服』上)とあることから推せば、王の機関のことか、との推量を可能にする。・・・・・(下略)」(『古鏡銘文集成』新人物往来社刊)
また、宮崎公立大学の教授であった奥野正男氏は、つぎのようにのべる。
「『青蓋』とは漢代天子の車にかける青色の覆いである。転じて天子の意とされるから、意味としては『尚方作』と同じであろう。」(『邪馬台国の鏡』梓書院2011年刊。205ページ)
さらに、岡山県都窪郡山手村宿の寺山古墳から出土した盤竜鏡では、「黄羊作竟」の銘がある。「黄羊」についても、三木太郎氏は、「王室の一機関と推定できる。」とする。
「黄蓋」という熟語も、辞書類にのっている。
「漢語大詞典」には、つぎのようにある。
「黄色の傘(かさ)、あるいは、黄色の車蓋。つねに、皇帝の車駕をさすのに用いる。」
「大漢和辞典」にも、「黄色のかさ」とある。さらに、「三羊作鏡」という銘のある鏡もある。
「三蓋」という熟語も、辞書にのっている。
諸橋轍次氏の「大漢和辞典」では、「三蓋」の項に、「三つのおおい。三蓋車を見よ。」とある。「三蓋車」の項では、「漢代の車の名。三蓋(三層の傘)があるので名づける。
天子親耕のとき[天子が、親(した)しく(あるいは、みずから)、農耕にたずさわるとき(これは、天子が、民に農業をすすめる儀式とみられる)]これに乗る。」とある。
「青蓋」「青羊」「黄羊」「三羊」などは 王室の機関名に由来するとみられる。
「呂氏」「張氏」「田氏」などのような「氏」がついていないことも、「青蓋」などが職人名ではないことを思わせる。
「青蓋」「黄蓋」「三蓋」は、いずれも、たがいに関連する意味をもつ。熟語として、いずれも、辞書にのっている。
以上から、「青蓋」「黄蓋」「三蓋」は、およそ、つぎのような意味内容をもつものと判断される。
「天子の御物(ぎょぶつ)[もちもの]を作ることをつかさどった役所に、『尚方(しょうほう)』があった。
その『尚方』のなかに、つぎのようなグループがあったとみられる。
(1)[青蓋(せいがい)]おもに、皇太子や王族のもちものの製作を担当したグループ。
(2)[黄蓋(こうがい)]おもに、皇帝のもちものの製作を担当したグループ。
(3)[三蓋(さんがい)]おもに、天子が。親しく農耕にでかけるときのもちものの製作を担当したグループ。」
なお、『時代別国語大辞典上代編』(三省堂刊)にのせられている「きぬがさ(蓋)」の説明を、つぎに示しておく。
この説明文のなかに、「身分によって色を変える」とあることに注意。
「きぬがさ[蓋](名)絹または織物で張った長い柄のかさ。神体・仏像の渡御や天皇・貴人の行列の際、後からさしかけ、左右に綱を引張って支える。儀制令によれば、貴人に用いる場合には、身分によって、色や四隅の錦・ふさなどを変えた。」
■岡村秀典氏の解釈
以上のような理解に対し、岡村秀典氏はのべる。
「六〇年代に有志の鏡工たちが立ちあげた『青盖』工房は、しばらく獣帯鏡や盤龍鏡の制作をリードしていた。しかし『池氏』や『杜氏』ら個人工房の作品と比べると、マンネリ化は否めなかったためか、七〇~八〇年代に『青盖』は『青羊(せいしょう)』『黄盖(こうしょう)』『三羊(さんしよう』などの小工房に分裂した。
「盖(しょう)」は「羊(よう)[=祥(しょう)]」の仮借(かしゃ)で『青』と『黄』は銅を象徴し、『三』は鏡の原料となる三種の金属をいうから、いずれも同系の吉祥語である。」
この解釈がよくないのは、つぎのようなことからいえる。
(1)「青祥」や「黄祥」という熟語があるが、いずれも、「吉祥句」とはいえない。「青祥」については、すでにみてきた。
「黄祥」という熟語については、『漢語大詞典』に、「災祥(わざわいのきざし)を、予示する黄色の物象。」「土の色の黄、黄眚(こうせい)、黄祥あり。」と記されている。「黄眚(こうせい)」の項に、「災異を予示する黄色の物象。」とある。
(2)「青蓋(せいがい)」「黄蓋(こうがい)」「三蓋(こうがい)」は、たがいに関連した意味をもつ熟語として、辞書にのっている。しかし、「青祥(せいしょう)」や「黄祥(こうしょう)」「三祥(さんしょう)」のほうは、「青祥」「黄祥」は、「わざわいのきざし」として辞書にのっているが、「三祥」という熟語は、辞書にのっていない。岡村氏の「三祥」の「三」は、「鏡の原料となる三種の金属をいう。」などは、岡村氏の想像的解釈というべきである。
総じて、岡村氏の訳読については、つぎのようなことがいえる。
(1)きちんと。一語一語辞書類をしらべることを行なっていない。
(2)三木太郎氏や奥野正男氏などの先人の説を参照していない。
さきに「青蓋」について、岡村氏は。スエーデンの東洋学者、カールグレンの説を引用する。しかし、そのカールグレンの説については、すでに中国の考古学者、王仲殊氏による批判がみられる。(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社、1992年刊」168ページ、「『青羊』とは」の文章」)
以上のようにみてくると、岡村秀典氏の、つぎのような訳読や説明は、いずれも誤りとみられる。(傍線は安本)
(1)「三羊宋氏作竟善有意。
三羊(さんしょう)宋氏(そうし)鏡(かがみ)を作るに、善(よ)き意(おもい)有(あ)り。
良時日家大富。
時日(じじつ)良(よ)ければ、家(いえ)は大(おお)いに富(と)まん。
宦至三公中常侍。
仕(つか)うれば三公(さんこう)・中常侍(ちゅうじょうじ)に至(いた)らん。
長宜。
長(なが)く宜(よろ)し。」
「『宋氏』はつづいて『青羊』と合作し、『青羊宋氏作』画像鏡を制作する。その銘文はやや特殊だが、図像文様には『宋氏』の個性があらわれ、作鏡者は『宋氏』であったのだろう。『青盖』の分解に端を発する工房間の再編成は、『青盖陳氏』や『三羊宋氏』『青羊宋氏』のように作鏡者名から追跡できる合作のほかに、銘文としてはのこらない鏡工や工房の吸収合併も少なくなかったと思われる。」(以上、岡村氏の著書の、108ページ。)
ここにみられる「三羊(さんしょう)」「青羊」などは、「三蓋(さんがい)」「青蓋(せいがい)」などと読むべきものとみられる。
(2)「黄盖作竟甚有畏、
黄祥(こうしょう)鏡(かがみ)を作(つく)るに、甚(まこと)に威(おごそか)なり。
國壽無亟、
下利二親。
国寿(こくじゅ)は極(きわ)まり無(な)く、下(しも)は二親(にしん)に利(よろ)し。
尭賜女爲帝君。
尭(ぎょう)は女(むすめ)を賜(たま)い、帝君(ていくん)と為(な)す。
一母婦坐子九人。
一母婦(いちぼふ)坐(ざ)し、子(こ)は九人(くにん)
翠盖覆貴敬坐盧、
翠蓋(すいがい)は貴(き)を覆(おお)い、敬(つつし)みて盧(ろ)に坐(ざ)す。
東王父西王母哀萬民兮。
東王父(とうおうふ)・西王母(せいおうぼ)は万民(ばんみん)を哀(いつく)しむ。
作鏡者の『黄盖』は『黄祥(こうしょう)』の仮借であろう。淮派の『青蓋』は一世紀末に『青羊』『黄羊』『三羊』など『盖(祥)』字の雅号を共有する小工房に分解したが(一〇五頁)、その一部は四川に移って広漢派の周辺で盤龍鏡などを制作していた。『黄蓋』や建寧(けんねい)二年(一六九)獣首鏡を制作した『三羊』は、その流れを引く小工房であろう。その鏡には広漢派と共通する文様が多ものの、『広漢西蜀』が四言の銘文を主に用いたのに対して、それらの鏡は七言を主とする銘文を用いたところに淮派の影響がのこっている。」(以上、岡村氏の著書の、157・158ページ。)
「黄盖」は、文字どおり、「黄盖(こうがい)」と読むべきであろう。「黄盖(こうしょう)=黄祥(こうしょう)」と読んだのでは、すでにみたように、「災祥を予示する物象」(『漢語大詞典』)になってしまう。
そもそも同じ銘文のなかに「黄盖(こうしょう)」のほかに「翠盖(すいがい)」ということばが、銘文のなかで、あきらかに、「貴(とうとい人)を覆(おお)い」という形ででてくる。それなのに、「黄盖」のほうは、「こうがい」と読まずに、「こうしょう」と読むのは、不自然である。また、「青盖(せいがい)」「黄盖(こうがい)」「翠盖(すいがい)」のように、色を意味する「青(せい)」「黄(こう)」「翠(すい)」と、「かさ」を意味する「盖(蓋)」とが結びついているのである。したがって、これらは、いずれも、本来、貴人にさしかける「蓋(かさ、おおい)」であると、なぜ、統一的に理解しないのであろうか。
■『全唐文』の「銅鏡鉗文」について
別の例をあげよう。
岡村秀典氏は、『鏡が語る古代史』のなかで、『全唐文』という文献の一部を引用し、つぎのようにのべる(岡村氏の本の224ページ。つぎの引用文に傍線を引いたのは、安本)
「それから六〇〇年ほど経った唐の文宗(ぶんそう)(在位八二七~八四〇)のとき、朝廷では卑弥呼への下賜品が話題になった。相次ぐ戦乱によって唐王朝はいちじるしく衰退していたところに、チベットの吐蕃(とばん)国が馬を要求してきたのである。その対応をめぐって朝廷では激論が戦わされ、数多くの軍功をあげていた王茂元(おうもげん)[安木注。これは「王茂元(おうぼうげん)」とカナをふるべきである。なぜなら①「元」を、漢音の「ゲン」で読んでいる。「茂」の漢音は、「ボウ」である。②漢音は唐代の長安音を写したもの(『広辞苑』)である。]は次のように上奏した。
むかし魏は倭国に酬(むく)いるに銅鏡・紺文(こんぶん)に止(とど)め、漢は単于(ぜんう)に遺(おく)るに犀毘(せいび)・綺袷(きごう)に過ぎず、ともに一介の使もて将に万里の恩とす。(「奏吐蕃交馬事宜状」) 
この原文は『魏』と『漢』、『倭国』と『単于』、『銅鏡』と『犀毘』、『紺文』と『綺袷』が対句になっている。魏が倭国に贈った『銅鏡』は『魏志』倭人伝にみえる『銅鏡百枚』、『紺文』は『紺地句文錦』ほか各種の絹織物を二字に省略したものであり、漢が匈奴に贈った『犀毘』は『史記』匈奴伝などにみえる黄金の帯金具、『綺袷』は『服繍(ふくしゅう)袷綺衣・長襦(ちょうじゅ)・錦袍(きんぽう)」など各種の絹織物を二字に縮約したものである。要するに、魏は倭王に対して銅鏡と絹織物を与え、漢は匈奴単子に対して帯金具と絹織物を贈ったが、万里のかなたにある蛮夷に対して、それ以上の厚遇は前例がない、と王茂元は論じたのである。」
これは『全唐文』684巻にのっている文章である。
ここに岡村氏が引用している「全唐文」の文章は、魏から卑弥呼に与えられた鏡に関連して、以前問題になったことがある。2011年7月に刊行された『季刊邪馬台国』110号でも、とりあげられている。そのことについては、あとでのべよう。
問題は、つぎのような点にある。岡村秀典氏が「全唐文」のなかの、「奏吐蕃交馬事宜状」として引用した文のなかにみえる「紺文(こんぶん)に止(とど)め」の「紺文」が、『全唐文』の原文では、上図にみられるように、「紺文」ではなく、「鉗文」になっている。
原文では、「金へん」の「鉗」になっているものを、岡村氏は、なんのことわりもなく、「糸へん」の「紺」に晝きかえている。その上で「魏志倭人伝」の「紺地句文錦」と結びつけているのである。勝手な書きあらためというべきである。岡村氏の本には、原文の写真などは示されていない。岡村氏の本だけを読む人には、そのように岡村氏によって書きかえが行なわれていることはわからない。
文字を、原文の「鉗」から「紺」へ書きあらためたのなら、そのように書きかえたことや。その理由を一言(ひとこと)のべるべきであろう。
たんに、原文の「鉗文」は「紺文」の誤字であると判断されたのか。それとも「鉗」は「甘」と省略されうるだろう、「紺」も「甘」と省略されうるだろう、よって、「鉗」は「紺」に等しいという論法によられているのか。(この論法は、すでに紹介した「盖」は「羊」に省略される、「祥」も「羊」に省略される、よって、「盖=祥」が成立する、という論法とほぽ同じである。さらには、「岡村秀典=安本美典説」も成立しそうな論法である。)
上図の左図にみえる「欽定」は、「君主の命による選定」(「広辞苑」)の意味である。「欽定」であるから、そうとう、ていねいに校正されているはずである。
また、上図の右図にみられるよう『全唐文』の他のテキストでも、この部分は、「鉗文」となっている。「紺文」の誤植の可能性は、低いようにみえる。
では、原文の「鉗文」が正しいとして、「銅鏡鉗文」は、どういう意味なのであろうか。『全唐文』のこの部分の記事が最初に問題になったのは、2011年のことである。聖徳大学(千葉県)の山口博教授か、「三角縁神獣鏡=特注説」(「三角縁神獣鏡」は、魏が倭に贈るために、特別に注文してつくった竸であるとする説)をとなえ、その根拠として、『全唐文』のこの記事をとりあげた。そして、その見解が『週刊新潮』の2011年の6月16日号に紹介されたのである。
そして、本誌、『季刊邪馬台国』の110号(2011年7月刊)において、この「鉗文」の意味について、私は、およそ、つぎのように論じている(今回、多少、加筆、訂正している)。
「『全唐文』のなかの『問題の記述』はつぎのようなものである。
〈昔、魏ハ倭国ニ酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ハ鉗文(けんぶん)ニ止(とどめ)メ 漢ハ單于ニ遺(おく)ルニ犀毘綺袷(さいびきごう)ヲ過ゴサズ 並ビニ一介ノ使、将二万里ノ恩トス〉
この文で、ややわかりにくいのは『鉗文(けんぶん)』ということばと、『犀毘綺袷(さいびきごう)』ということばである。
とくに重要なのは、
『鉗文』の解釈である。これが、問題の核心である。
『鉗文』について、山口博氏は、『これは倭国にとって禍々(まがまが)しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読める。いわば特注品を贈ったとあるわけです。』という。
ウーム。この解釈は正しいのであろうか。山口氏の独自の解釈というか、『特注説』を前提とした、いわぱ勝手な解釈のようにみえる。
『鉗(けん)』は『くびかせ、くびかせをつける、くつわをはめる』の意味である。
山口氏は、『くびかせ』は『禍々しい』ことなので、『鉗文』は『禍々しい模様や銘文』と解釈されたようである。
しかし、これは『超訳』というか、連想訳というべきである。というよりも、ほとんど誤読といってよい。その理由を、すこしくわしくお話しよう。
『鉗』には『禍々しい』などという意味はない。原義どおりにとるべきで、『鉗文(けんぶん)ニ止(とど)メ』は『文(ぶん)を鉗(けん)するに止(とど)め』で『文様』や『銘文』にくびかせをつける、つまり、あるていどの制限。制約をつけるにとどめ、ほどの意味とみられる。
つまり、多少粗悪な鏡も、特に立派でない鏡も、大きな鏡も、小さな鏡も、とくべつに制約条件はつけず、あるものを(かき)集めて与えた、というほどの意味のようにうけとれる。
ちなみに、中国のばあい、日本と異なり、鏡が、一つの墓のなかから、まとまって出土することは、かなりまれである。死者生前の使用物をうずめたからである。
『洛陽焼溝漢墓(らくようしょうこうかんぼ)』のばあい、総数95基の墓から、118面の銅鏡が出土している。一つの墓からの出土は、一、二面ていどである。
『洛陽晋墓』のばあいは、総数54基の墓から、24面の銅鏡が出土している。
一度に100面の鏡を集めるのは、なかなか大変であったことを思わせる。
『全唐文』の文のなかに、酬(はなむけ)したこと、酬(むく)いたこと、つまり、贈ったとは書いてあっても、『作ってあげた』『特注品を贈った』ことなどは、書いてないのである。『特注説』という前提をもっていないかぎり、山口氏のようには読めない。
たとえば、江戸時代の本居宣長が、藤貞幹(とうていかん)[藤原貞幹]の論文『衝口発(しょこうはつ)[口を衝(つ)いて発す]』を批判した著名な論文に、『鉗狂人(けんきょうじん)』がある。『鉗狂人』という文献名は、『広辞苑』にも一項目としてのっている。これは、藤貞幹が「口を衝いて発す」といっているから、本居宣長は『自由に言葉を発することができないように、くつわ(口輪の意昧)をはめる、制約する』といっているのである。
「鉗口令(かんこうれい)」(このぱあいの「鉗口(かんこう)」は、「鉗口(けんこう)」の慣用読み)といえば、あることがらについて、他人に話すことを禁ずる命令のことである。
[鉗狂人]を『禍々しい狂人』などと訳しては、たんに藤貞幹を罵倒していることになり、本居宣長の真意は伝わらない。
藤堂明保氏の『学研漢和大字典』(学習研究社刊)をみても、『鉗』には、「くびかせ」『くつわ』のような名詞の意味や、『くびかせをかける』『くつわをはめる』のような動詞の意味はのっていても、『禍々しい』のような形容詞の意昧はのっていない。
『鉗狂人』の『鉗』も『くつわをはめる』の、動詞の意味で用いられていることに注意。」
■「出土」と「採集」
岡村秀典氏が、原文をことわりなく書きあらためている例を、いま一つあげておこう。
岡村秀典氏は、『鏡が語る古代史』の214ページで、つぎのようにのべる。(傍線を引いたのは安本)。
「三角縁神獣鏡の成立
日本の古墳から大量に出土する三角縁神獣鏡にも、239~240年の魏の年号をもつ鏡がある。それも青龍二年鏡と同じように後漢鏡の模倣によって成立した。
そのうち景初(けいしょ)三年(239)『陳是(ちんし)[氏]作』に三角縁神獣鏡のモデルになったのは、190年ごろの画文帯同向式神獣鏡である。洛陽市吉利(きつり)区の出土例は、径一五センチ、鈕の右に西王母、左に東王公があり、外区の画文帯は時計回りにめぐっている。」
この文章の傍線部で、岡村秀典氏は、「出土例」と記す。
ところが、中国で出されている『洛鏡銅華上』(中国・科学出版社、2013年刊)の188ページをみると、この洛陽市吉利区の鏡は、「采集(採集)」と記されている。

つまり、この鏡は、「出土品」ではない。「採集品」なのである。
このような、微妙なことばのおきかえがある。「採集」品のばあい、贋造鏡がまじる可能性がある。中国では、贋造鏡がきわめて多い。そのことについては、拙著『邪馬台国大戦争』(勉誠出版、2017年刊)のなかで。かなりくわしく、多くの例をあげてのべた。
しかも、この中国で刊行された『洛鏡銅華』の本は、ほかならぬ岡村秀典氏の監訳で、わが国でも、『洛陽銅鏡』(科学出版社東京、2016年刊)として、出版されている。
そこでは、ちゃんと、「採集」と訳されている(翻訳本の、194ページ)。「出土」とは記されていない。
岡村氏の、この種の大ざっぱさは、かなり気になるところである。